長いのとちょっと過激?
今日聞いて面白いなと思った事、覚えてるうちに書き出しておく。
世の中では、徳とか善(virtue)を「弱さ」と考える事がまま見られる。それは、例えば社会主義革命において地位が下である(力が弱い)労働者階級が「善」で地位が強い(力を持つ)人間が悪であると考えたりする事。でも実際、そういう人たちが力を持った途端に悪事を働くことがある(ソ連とかね)。他にも、被差別階級が力を持った途端に差別をしたり。これはどういう事かというと、単に「悪事を働くだけの力がないだけで、善人では無かった」という事(not harmではなくcan’t harmなだけだったという事)。(ここからはあまり同意はしてないが)つまり、まず初めに力を持って、その上で力をコントロールして人をharmしない人間が真に善である(virtuousである)という考えがあるらしい。
自分としては、強くある必要があるのかはわからないが、「can’t harmな人が善人ではない」というのは、マジでそれな、と思った。
つれづれなるままに
@hidao 自分も基本的には絶対善はないという立場です(あくまで個人がその人の視点で決めること、という立場です(荘子に影響受けまくってます))。確かに、かなりそれは腑に落ちます!
そう思うと、啓蒙的な立場で(=自己をより高めようとする立場で)、各々の考える「善人」になるには最低限、外圧に耐えれるだけの力は付けないと善人にはなれないと考えられますね(ある意味でこれもマッチョな思想と言えますが....)
思想(亀レス)
@tatmius@fedibird.com うーん、私は外圧に負けていても「善人」でいられると言うスタンスです。
と言うのは「その人が善であるかどうか」は行動で表されるものが全てではないと考えているからです。
外圧に負け、悪行を働いたとしてもその人の善性は失われることがなく、外圧がなくなった時、または外圧に打ち勝った時に善なる行動ができるのであれば、善人でい続けられると考えているからです。(私は大乗仏教よりの思想なので、悪行をしているその最中にでも善性を持ち続けることが可能(「仏性」的なイメージ)だと言うスタンスです)
「観測できないものは無いのと同じ」であれば、外圧に負け悪行をしている時には「善人」では無いですが、私は心の有り様として「善人」でいられる事は可能であると考えています。
仏教の「仏性」やキリスト教の「悔改め」的なシステムといったイメージでしょうか。
思想(亀レス)
@hidao 今更ですが、これは「善人である」という言葉の解釈の違いな気がしました。特に、自分は啓蒙的な文脈で考えていたので、心の中に善性があっても外圧によって悪事を働くような場合は「善人ではない」と捉えています(内心では善人でありたいが、そうなれていない状態と考えています)。まぁ、これはどこからを善人と呼ぶのかという程度の問題なので、個々の自由な回答があるところですが......
長いのとちょっと過激?
ちなみに友人も自分と同じで「social justiceは最悪」らしい。それは社会を勝手にclassificationしてあーだこーだ言うが、その分割方法は無限にあるので、そもそも、議論として成立しないかららしい。まぁ総じてその友人の思想は結構マッチョな所があるなぁと思うけど、理解できる。