ノーベル賞のハン・ガンさん おめでとうの後で 斎藤真理子さん寄稿https://www.asahi.com/articles/ASSBJ2RKQSBJUCVL048M.html
「歴史的トラウマに立ち向かい、人間の命のはかなさをあらわにした強烈な詩的散文」
“詩的散文とはどういうことだろうか。それは単に、語彙(ごい)や表現が詩のようだということではない。生と死の境界、夢と現実の境界を突破する、繊細にして強靱(きょうじん)な文体が評価されたのだ。”
“日本による植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、そして軍事独裁政権による人権弾圧。韓国の現代史は満身創痍(そうい)である。その中で長い間、詩人の想像力は武器であり、希望だった。ハン・ガンももともとは詩人で、デビューしたのも小説より詩が先である。”
久しぶりに読み返すとやっぱり面白い。
紹介されていた『生きづらい明治社会』も良かった。
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
非常戒厳「大変ショック」と憂慮 ノーベル文学賞のハンさん
https://www.47news.jp/11868765.html
道徳は統治のためのイデオロギー。
“序章では、通俗道徳が荒廃する農村を立て直すための思想として、近世後期に民衆のなかに浸透していったことを確認した。その通俗道徳は、明治期になると、このように公権力による統治のイデオロギーとして用いられた。自己責任の世界の到来を、あ「抑うつ的で緊張にみちた“近代”というものが、人びとの生を全面的に規制しはじめた」と安丸は表現している(『文明化の経験』)。”
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
“冠婚葬祭は最小限の人を招き、できるだけ簡素にすること。家などを建てる際にも、酒を禁止し、棟上げの時に餅を投げる慣習を禁じること。こうした日常生活の祝祭を可能な限り質素簡略化し、浪費しないことで、貧困に備え、景気変動に耐えられるようにする。これが節倹法の趣旨であった。
[前略]松方デフレは、政策上つくり出されたものであった。そこでの困窮はこうしたささやかな努力だけで乗り越えることは困難である。にもかかわらず、このような節倹法によって、貧困の原因が個の生活態度の問題に還元されるようになる。松沢裕作は、通俗道徳によって、貧困が自己責任と捉えられるようになる仕組みを、「通俗道徳のわな」と呼んでいる(『生きづらい明治社会』)。”
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
“秩父事件は、あるべき仁政が行われないことに対する怒りや、自由党に幻想的な解放を求める民衆の願望が混ざり合って起きた暴力行使であった。しかし、すでに暴力の正当性が国家に集中しており、蜂起しても国家の暴力装置によって鎮圧されることは民衆レベルにも認知されていた。
訴願による仁政要求が認められず、暴力行使もできなくなるとしたら、問題解決の手段は何があるだろうか。この点について、安丸良夫は、秩父事件後に武相地域の村々で県からの節倹法が作られたことに注目している。”
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
“武相困民党の史料のなかには、須長の書き付けが残っており、そこには次のような有名な下りがある(『日本近代思想体系』21)。
「私立銀行・金貸会社においては、これまで窮民を圧倒する甚だしく、その返報〔報い、仕返し〕としては(一時に来す土崩瓦壊は、この掌を返すに似たり)一夜のもとに建造物は灰燼となし、一時のうちに斬に処し、骸は街の梟首に掛け、遺体は原野に鳥獣の腹を肥やし、その心地よきを見て、初めて懐復の志望を起こすものなり。」”
『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
私に、心の扉が25あると思ってみてください。それが毎日ひとつ開いて、私自身もあるとは知らなかったものが飛び出します。たとえば、クルマエビへの敵愾心とか。ぜんぶ受け取って咀嚼してください。最終日にはぜんぶ忘れてください。そういう甘えを許してください。
“考えてみるなら、日本において天皇制は強力なタブーであり、暴力に囲まれていることは誰もが知っています。それを侮辱する者への嫌がらせはもちろん、物理的殺害もめずらしいことではありません。そして、このテロリズム(天皇制を擁護する暴力)に対しては、この社会において強い非難や排撃、取り締まりの対象にならないこともみな知っています。知識人ならなおさらそうでしょう。
天皇制はこうした字義通りのテロルに浸りきっている。だから知識人もふくめて日本における天皇への敬愛なるものは、こうした恐怖にべったりと取り憑かれていると思います。右翼ではない知識人が、天皇への愛着や信頼をなにがしかポジティヴに捉えることそれ自体に、恐怖感とその否認がある。これは暴力への恐怖を直裁に表現できない、それを抑圧してしまうマチズモとも深く関係していると思います。”
https://www.ibunsha.co.jp/contents/sakai_nakamura_hirata03/
「日本人として、朝鮮を対象にした日本の犯罪を立証しなければと思った」
https://japan.hani.co.kr/arti/international/48405.html
「日本はなぜ朝鮮を植民地支配したのでしょう。コメを収奪するためでした。植民地支配を開始した後、朝鮮総督府は朝鮮に日本式の農法を導入します。朝鮮の農民に安価なコメを生産するようにして、日本の国内物価を安定させ、食糧危機を乗り越えるのが基本的な考えでした。強制動員の労働者たちに、(工場や炭鉱などで)暴力を行使して働かせたと言われていますが、もっとひどいのは(植民地支配末期)コメを供出した時でした。警察の立会いの下、供出督励員と面書記が家を一軒一軒を回りながら隠したコメがあるかを捜索し、暴力を振るいました。農民たちは孤立していたから、組織的抵抗ができませんでした。生産したコメをすべて供出された朝鮮の農民に残った食べ物は、満州で生産した豆から油を搾った後に出た油粕でした」
朝鮮が作った米で日本の消費支える…帝国のフードシステムから見た経済史【レビュー】https://japan.hani.co.kr/arti/culture/50702.html
“強制合併に続く土地調査事業が終わると、朝鮮で日本人の耕作地の所有面積が急増した。1932年になると日本人が朝鮮内の水田全体の16.1%を所有することになるが、そのうち88.8%が小作地であり、ほとんどの日本人が植民地の地主だった。 朝鮮総督府が推進した「産米増殖計画」により米穀生産が大きく増えた。生産された米穀のうち輸移出量は1912年には4.5%に過ぎなかったが、1921年には21.9%に増え、1936年には51.4%を記録するに至った。日本の1人当たりの年間米消費量が1930年代まで1.3石前後を保っていた一方、朝鮮の米消費量は併合の頃の0.9石ほどから、1930年代前半には0.5石前後にまで落ち続けた。”
ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史
2024年2月23日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/29293
“シオニズムは、西欧植民地主義が結晶化したものだ。かつて日本が中国東北部につくった満洲国では、日本から「未開の地を切り拓く」というプロパガンダで農民たちが渡っていったが、そこにはすでにきれいな田んぼがあったといわれている。なぜか? それは朝鮮の移民たち、場合によっては日本の植民地主義のなかで追われた人々がその地を切り拓いていたからだ。その地を二束三文で買い叩き、武力で奪い、そこへ日本の貧農を入植させた。そのとき、その地の中国人、朝鮮人を「土匪」「共匪」と呼び、これらの暴力が怖いからと言って銃を持って入植を進めていった。これはパレスチナでユダヤ人がやっていることと重なる。”
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