人間狩り・奴隷制・国家なき社会
──シャマユー、ミシェル、そしてクラストル
酒井隆史 × 中村隆之 × 平田周

第3回
「ピエール・クラストル/国家をもたぬよう社会は努めてきた」ibunsha.co.jp/contents/sakai_n

 “この『自発的隷従論』をどう捉えるかということがすごく重要になってくると思うのですが、私が『自発的隷従論』を何で知ったかというと、アナキストがしょっちゅう引き合いに出していたからです。この本はアナキストにすごく愛されてきたのです。なぜ愛されてきたかというと、アナキストの場合の本書への力点は「われわれの意志でいつでもこの社会をやめられる」というところにあったからです。「われわれの意志がこの社会を成り立たせているなら、われわれの意志でいつでも撤回できるんだ」と。つまり、アナキストによる自発的隷従論への愛は、「大衆は権力を欲望した」といったところには、少なくとも力点がない。”
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 “先日の選挙(2021年衆院選)でも大阪で維新が躍進したことを受け、「愚民論」のようなものが噴出してましたよね。つまり、「大阪人は、あんな党に票を入れてなんて愚かな大衆たちなのか」と。これが2010年代の知的空気を集約的に表していたように思います。ポピュリズム批判、反知性主義批判、フェイクニュース批判、通俗道徳批判。こうした枠組みが2010年代には強力に作動していました。そこにはすべて、そこはかとなく「愚民論」が貫通しています。「自発的隷従論」の読まれ方も、そのような流れとマッチしていたように思うのです。そこでは、アナキストの力点、「いつでもやめられる」のほうがほとんど吹っ飛んでいました。”
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クラストルの読解は、こうした「リベラル」なものとは断絶していることは明らかです。しかし、やはりクラストルの場合もアナキストとは違い、「いつでもやめられる」というところに力点がない意味では共通している。つまり彼は、ラ・ボエシの議論に、隷従を自発的に意志しない契機を強力に読み込んでいます。そして、それが一転して人間は自発的に隷従を意志することになる、その転機を「災厄」だと見たラ・ボエシの、この「災厄」の還元不可能性を全力で強調するのです。
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人間狩り・奴隷制・国家なき社会
──シャマユー、ミシェル、そしてクラストル
酒井隆史 × 中村隆之 × 平田周

第3回
「ピエール・クラストル/国家をもたぬよう社会は努めてきた」
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 “自発的隷従を日本で論じるときに天皇制を避けるわけにはいきません。そこで本書の解題では、天皇制への自発的隷従と見なされているものが、はたしてそうなのか、と疑義を呈しました。「一木一草が天皇制である」という命題と、自発的隷従論は非常に相性がいいと思います。そして、こうした論じ方自体が袋小路であることは明らかです。”
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 “考えてみるなら、日本において天皇制は強力なタブーであり、暴力に囲まれていることは誰もが知っています。それを侮辱する者への嫌がらせはもちろん、物理的殺害もめずらしいことではありません。そして、このテロリズム(天皇制を擁護する暴力)に対しては、この社会において強い非難や排撃、取り締まりの対象にならないこともみな知っています。知識人ならなおさらそうでしょう。
天皇制はこうした字義通りのテロルに浸りきっている。だから知識人もふくめて日本における天皇への敬愛なるものは、こうした恐怖にべったりと取り憑かれていると思います。右翼ではない知識人が、天皇への愛着や信頼をなにがしかポジティヴに捉えることそれ自体に、恐怖感とその否認がある。これは暴力への恐怖を直裁に表現できない、それを抑圧してしまうマチズモとも深く関係していると思います。”
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 “「自発的隷従」論は、こうした恐怖感の自己抑圧にも相性がいいのです。ドゥルーズたちがそれを警戒し、クラストルがそれに誘われるのを批判したのには、こういう要素もあるように思います。”
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