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ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史
2024年2月23日
chosyu-journal.jp/heiwa/29293

 “シオニズムは、西欧植民地主義が結晶化したものだ。かつて日本が中国東北部につくった満洲国では、日本から「未開の地を切り拓く」というプロパガンダで農民たちが渡っていったが、そこにはすでにきれいな田んぼがあったといわれている。なぜか? それは朝鮮の移民たち、場合によっては日本の植民地主義のなかで追われた人々がその地を切り拓いていたからだ。その地を二束三文で買い叩き、武力で奪い、そこへ日本の貧農を入植させた。そのとき、その地の中国人、朝鮮人を「土匪」「共匪」と呼び、これらの暴力が怖いからと言って銃を持って入植を進めていった。これはパレスチナでユダヤ人がやっていることと重なる。”

 “富裕層とその同盟者は、システムの正当化が困難になればなるほど、「切腹」や「安楽死」などを口にしながら、「たちどころ」の解決、つまり暴力による解決をもとめていくだろう。それと同時に、膨大な富を投入して、システムから振り落とされていく人びとになおこのシステムには維持する価値があると夢想(魯迅=竹内好のいう「夢から醒めないことの救い」)を提供し、システムを回すにあたっての邪魔者をつくりだしてはそれへの憎悪を注入していくだろう。老いた恐竜の悪あがきに巻き込まれることなく、わたしたちが生き延びるためには、その「若づくり」に幻惑されないようにしなければならない。本書の目標は、成否はともかく、その幻惑に抵抗すること、そして、すでに地球上のあちこちではじまっている、つぎの世界の組み立ての過程に、いささかなりとも参加することにある。” 
◆あとがきより
 

『賢人と奴隷とバカ』
akishobo.com/book/detail.html?

十二時間くらい寝た、そろそろ起きるか。

天皇制と戸籍は、いかなる関係にあるのか?
webchikuma.jp/articles/-/1880

 “筆者は前著『戸籍と無戸籍──「日本人」の輪郭』(二〇一七年)で、天皇家は戸籍を超越した存在であるとして、日本国家におけるその歴史的な特殊性について言及した。本書では、天皇制と戸籍をめぐる法および社会の構造と思想をさらに明瞭に浮かび上がらせることで、「家」や「血統」というものの意味を、「国家」や「歴史」の観点から問い直していく。
 具体的には、以下の課題に取り組むこととする。
 第一に、天皇および皇族が戸籍をもたないこと、換言すれば、戸籍が「臣民簿」として存在し続けていることの歴史的意味を検討する。これに関連して、天皇家が氏姓をもたないという事実を通して、日本人にとって氏姓とは何であるかを問い直したい。”

さんがブースト

ibunsha.co.jp/contents/sakaisp

“「最新のものにおいて世界の様相がけっして変貌しない」。最新のものの装いで、おなじものが永遠に反復されるし、永遠のくり返しが、いつも最新のもの、変化の様相としてあらわれざるをえない、これが地獄なのです。
こう考えてみると、この19世紀中盤に発端をみていたこの資本主義社会のあらたな地獄の様相を、まるで「天国」のようにえがきだしたのがポストモダニズムともいえるかもしれません(そして、メモ的にいっておくと、とりわけ1990年代以降のヒップホップのタナトス的反復感は、ポストモダンの言祝ぐ「くり返し」ないし「反復」を、ブルースの延長上でもう一度地獄の様相に書き換えたとみなせるかもしれません)。”

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さんがブースト

「だれがみずから自由を手放すだろうか」
──2010年代と現在をめぐって
酒井隆史インタビュー
ibunsha.co.jp/contents/sakaisp

 “いずれにしても、しかし、ここではたんに若い口からいわせること、それだけが重要なんですよね。とすると、ここでいってきたことの純化した表現ですよね。たんに「あたらしい」というだけで価値がある。生物学的に若いというだけの口からでてくるというだけで、実質となんら関係なく価値がでてくる。商品化した言説の極北。かれらは一貫性もなにもかかわりなく、その都度、支配集団のいってほしいことをいいます。批判や疑義がわきおこったら、それをたたきつぶす役割です。これも実質的に説得力がなくてもいい。どんなに正当性のある批判でも、それに対して著名人が難癖をつけて、正当性に瑕疵があるかのようにみせかけられれば役割をはたしたことになる。あるいは、深刻な問題を深刻でないかのように、本質でない問題を本質であるかのように、ただ戦略的な筋に沿って語ることだけが問題なのです。そしてそこに、膨大な資金が投入され、お金がまわるシステムが構築されている。ブルシット・ジョブの構造がここにもみいだせるようにおもいます。”

さんがブースト

【延期のお知らせ】
11月2日(土)に開催を予定しておりました #入管法改悪反対アクション@新宿南口 は、悪天候が予想されるため11月3日(日)に延期いたします。よろしくお願いいたします。

ラジオで「物語」の話があり、外から来る侵入してくる何者かによって安全が脅かされる、汚染される、そういう物語はすごく不安と相性が良いと思った。内側にいる私(私達の空間)は無垢である、という認識も強化する。

[寄稿]日本知識人の覚醒を促す 和田春樹先生への手紙(2)
japan.hani.co.kr/arti/internat

 “日本では東西対立時代の終焉は「脱イデオロギー時代」という浅薄な決まり文句とともに、進歩的リベラル勢力の自己解体という方向で進行しました。社会党・総評ブロックそのものが「55年体制」と称する旧体制に依存してきたことは事実ですが、そのような社会変動の中で新しく進歩的勢力を結集する代案を提示することができないまま、すすんで自壊の道を選んだことが致命的でした。社会党は小選挙区制を受け入れ、自民党との連立も喜々として受け入れました。一貫して国家主義に抵抗してきた日本教職員組合(日教組)は方針を転換し、学校行事での国旗掲揚、国歌斉唱を容認しました。その際につねに言い交された決まり文句は「時代は変わった。もうイデオロギーの時代ではない」というものでした。進歩勢力がみずから「脱イデオロギー」と称して理念や理想を捨てていたとき、右派勢力はむしろ国家主義イデオロギーの砦を固めて反攻の機会をうかがっていたということになります。”

さんがブースト

徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
note.com/k2y2manabe/n/nb14c348

 “日本政府が「植民地支配」の事実をしぶしぶ認めたのは敗戦から五〇年を経た一九九五年のことである。当時の連立政権で首相を務めた社会党出身の村山富市が記者会見で、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うことのできない歴史的事実』」であると述べたのである。

 この談話は植民地支配の事実すら認めようとしなかった従来の政府の立場から見れば一歩前進と言うこともできよう。しかし、談話発表時の記者会見で村山首相は、天皇の戦争責任があると思うかという質問に対して「それは、ない」と一言で否定した。また、いわゆる韓国「併合」条約は「道義的には不当であった」と認めつつ、法的に不当であったということは認めず従来の日本政府の見解を固守したのである。この線、すなわち「象徴天皇制」と呼ばれる戦後天皇制を守護し、植民地支配の「法的責任」を否定すること、相互に深く関連するこの二つの砦を死守するための防御線を当時の日本政府は引いたのだといえる。”

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“戦後詩人に限っていえば、私自身の不明のせいかもしれないが、ストレートな天皇制批判として心に浮かぶのは茨木のり子の「四海波静」「倚りかからず」くらいである。詩人のみなさんには、槇村浩、中野重治、小熊秀雄ら、日本にも決して少なくない抵抗詩の命脈を失ってほしくない。”

憲法九条、その先へ  ──「朝鮮病」患者の独白note.com/k2y2manabe/n/n45371b3

面白かった。皇室、天皇制そのものが差別的な存在なので、仮にその中の男系のみの皇位継承(女性差別)を改めたとしても、という指摘。

open.spotify.com/episode/4Z6KK

人権問題から総選挙を見たときd4p.world/29437/

④国民民主党 玉木雄一郎 代表(質問:尊厳死)

[前略]“しかし同党の政策パンフレットにも「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保障制度の確立」の大項目のなかに「(13)法整備も含めた終末期医療の見直し」があり、そこに「人生会議の制度化を含む尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を抑制します」と書かれている。この流れからすれば、「医療費削減が目的」と伝わっても致し方ないのではないだろうか。

番組内でライターの武田砂鉄さんも「誤解のしようがない」と評していた。”

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