『少年が来る』
読後、『徐京植 回想と対話』で引用されていた藤田省三の文章を思い出した。
「この土壇場の危機の時代においては、犠牲への鎮魂歌は自らの耳に快適な歌としてではなく、精魂込めた他者の認識として現れなければならない。その認識としてのレクイエムのみが、かろうじて蘇生への鍵を包蔵しているというべきであろう。」
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読んでいてつらかったけれど、国家による暴力の凄惨さを描写しているのだから、つらく感じて当然ではある。

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