読んだ。詩、詩人のことをもっと知りたい。
『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』
斎藤 真理子 著
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=4767
徐京植「母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える」
https://note.com/k2y2manabe/n/nf03caaf03269
徐京植「母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える」
https://note.com/k2y2manabe/n/nf03caaf03269
“翻訳という作業は、いうまでもなく、不偏不党の非政治的な行為ではありえない。そこにはかならず「解釈の権力」ともいうべき権力関係が反映している。マイノリティや被抑圧者による言語表現を、マジョリティや抑圧者の側にある者が翻訳し、流通させるときには、なおさらそうである。どの作品を選び、どう解釈し、どの訳語をあてるか、どのような形態で出版するか、そうしたことを決定する権力がマジョリティの手に握られている。その出版物はマジョリティからなる市場で販売され、マジョリティである読者たちの興味を引いたときにだけ買われ、解釈は読者たちに委ねられ、つまらないと思われれば簡単に投げ出されるのである。”
徐京植「母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える」
https://note.com/k2y2manabe/n/nf03caaf03269
“私自身もツェラーンと同様、自分の真実は母語でしか表現できないと考える。したがって、日本語で記述している。しかし、私には、その母語が日本の朝鮮植民地支配によって力づくで強いられた「檻」であるという考えが取り付いて離れない。
そのため、ある対象に接し、その経験を「美しい」とか「恐ろしい」とかという言葉で表現するとき、その表現がどこまで自分自身のものであるのかが疑わしい、といった感覚がある。念入りにいうと、それは「うまく表現できない」という感覚とは違う。何かを感じる感性、それを表現する言語それ自体がある外的な暴力によって注入されたものだということに気づいてしまった違和感である。いわば、自分自身の実存と言語表現との間の「裂け目」のようなものだ。伊吹訳への疑問も、この「裂け目」から噴き出してきたといえる。”