わたしは生活保護家庭の出身で学費援助とスクールローンで高校卒業して働いたんだよね。生活保護に繋いでくれたのは近所に住んでた学会員のおばちゃんで、公明党の議員さんの口利きで保護に繋がったの。
わたしは高卒で働いて家にお金を入れて、妹はわたしの援助と奨学金で大学卒業して公務員になっていまも働いている。貧しい2人の子供は立派な納税者となり、しょうもない親を援助もしました。世間で考えるところの自助共助公助の成功モデルのひとりだと思う。
成人してから祖母や父の介護も経験しました。
それで思うけど、まず公助は現在もある。が、ガッツがないと使えない。手続きが煩瑣だったり、市役所員が不親切だったり、そういうのをガッツで乗り越えないとダメなんだが、困窮者はたいがい、困窮して疲れてもうガッツがないし、公的機関への不信感が強いんですよね。
まず公助へのスティグマを減らすのが大事だろうなと思う。
わたしはいざとなったら市役所のカウンターで泣いてダメならNPOを頼るか共産党に駆け込んで市役所のカウンターに戻ればなんとかなると思ってるんですけど、それはわたしが公助に育てられたから、扉の向こうになにがあるか知ってるからだと思うんだよね。あと書類とかの事務手続きに比較的親和性があるのもある。
困窮する人はそもそも手続き類がダメな人も多いと思う。
ぶるすこでも書いたが、いざというときに身内は真っ先に逃げる。これはわたしの経験則です。おじおばや仲良かったいとこたちと再会できたのはわたしが自分でお金を稼げるようになってからだった。
身内は困窮者を助けねばならないという日本社会に蔓延する倫理に縛られる。助けるのは負担だから、見えないところに行くんです。
そうやって人の縁が断ち切られて回復できなかった相手もいる。彼らが多くの負担に耐えなくても公助が作用するとわかっていれば、少しずつの縁でも繋がったろうと私は今でも思っています。
誰もが助け合う社会なんですよ、っていう前提が共有されてない中で、公助だけ強調して見えると、財源どうするんだって話になるが、いまでも公助はあるんだよね。