だって商業じゃなく本気でクリスマスを祝う国々でいちばんDVが増えるのがクリスマスの日々なんだもの圧力すごいんだよね、理想の幸福な日々でなければならないっていう。ストレスそのもの。日本の引きこもりが正月に親戚に集まられるのが苦痛なんてレベルじゃなくて、自分が家族と一緒に幸福でなければならないという強迫観念に追い詰められる日々じゃないかと思うと胸が詰まる。そりゃ暴力に逃げるよ。即物的なところでも、相手が何を欲しいかという気持ちが分かってなくてせっかくプレゼントしたのに喜ばれないとか、喜んだふりをされるとか、親と子と孫と三世代で住む世界が違ってしまっているのに仲良いふりを続けるとか、配偶者が協力的でないとか幸福像が違いすぎて日常の言動や行動にも逐一それが出てしまうとか。家族の地獄を思い浮かべてしまう。年末年始にそんなものがないわたしは幸せこの上ない。
なんだ、たったの25分間か
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=37076
Eテレ2355「2355-0655 年越しをご一緒にスペシャル」
12月31日(土)[Eテレ]後11:45
「2355」「0655」がお送りする年越しSP! うさぎ年のえとソングや、恒例の新春たなくじ、大人気「ヨルガヤ姉妹の今夜も眠れません」など盛りだくさんの25分間!
今日は大晦日。もう仕事は何もしない。
一つだけ、夜中に職場に行って、システムのマスター保守をするという仕事がある。4人だったかな、ユーザー・マスターの書換えが必要なのだ。3分程度で済むのだが、遠隔ログイン出来ないので、出向くしかない。更新は大晦日の夜中、出来れば 23:59 が良いという、お馬鹿な仕様にしたやつに説教してやりたい。
今から行ってフライングで更新するか。多分問題ないだろう。
カイセーの怒濤の文章、すごい。
大晦日に見る映画はパゾリーニ『ソドムの市』に決まりだね…何度見てもいい。権力の日常化陳腐化をサロ共和国という極端な状況で描いているが、日本でこそ日常化したファシズムが当てはまるのだから日本で日本人が今見る意味がある。なにしろ原題は『サロ120日』なのだ。あのイタリアの末期傀儡ファシズム政権の共産主義者虐殺マルツァボト事件の起こるような腐敗した権威主義体制の中で生の喜びを求めるとはどういうことだったか。それが現代の消費社会に普通に生きて普通の欲望を追うことがどんなにおぞましいことかを描くことになるとサドの『ソドム120日』の敷いた路線に基づいて見せつけられる。観衆としては、権力者の暴力に沿ってこの映画を快楽として消費することもできるし、志願兵達に自分を重ねて見ていくこともできる。志願兵は大衆で、徴集されたとは見えながらその実自分からあの快楽の館の体制に取り込まれていっている。消費社会に生きる大衆がCMを見て知らずに購買意欲をかきたてられるように。大衆たる志願兵が「協力によってはサロに連れて行く」と言われて、死に至る快楽と虐殺を尻目にダンスを踊る姿が私たちなのだと気づくのは苦痛を伴う。
たいていの場合人と話して政治的な話題で噛み合わないのは大衆が権力音痴だからで、反抗するにも的外れだし完全に前提からしてズレきっているのだからまさに話にならない。権力の構造は日常に深く埋め込まれて不可視化されてしまって、ふつうの当たり前なことにも本質を外れた表面的な決まりきった対応しかできないのだから解決に至ることがない。『蟹工船』の船員たちが勝ったのは閉鎖空間でその理不尽が見えるようになったからで『党生活者』になると主人公さえも再び日常の権力構造の中に埋没してしまう。人権の根本たる自由、人は人の手段となってはならないということが知られなければ原則が見えていないのでその人その人の対応になる。価値の相対化のもと善意でランダムに正しかったり正しくなかったりする。しかしの原則を見せないとか見えても表面的な美辞麗句にしておくことができるなら、不正な権力構造は維持されるし、その権力勾配の下の方では音痴同士が永久に噛み合わぬ合唱を続けていてくれる。
2023年の抱負は商売をすることって言ったけど商売じゃなくてもせっかくドイツ教育省が非商用使用自由のライセンスで豊富な近現代史資料を公開しているので、しかも改変可ということは翻訳可なので、そういう膨大な公共財を日本語でも手に入るようにしていきたいなーという気持ちはあって、あわよくばそれが宣伝になって仕事も得られたらいいなという気持ちもあって、去年もちょっとだけ思いついたのだけど今年はやろうと思ったことを実行しようという勢いがマストドンのサーバー設置のおかげで勢いづいたのだという点は感謝がある。こういう素晴らしい資料集がどんどん改変もして使ってくださいというライセンスで公開されてるのがドイツの豊かさなんだよなぁ… https://www.dhm.de/lemo/
田舎の自治会の協議費(自治会費)は、法律的にはどういう扱いなのだろう。
1) 私的な契約に基づく債務
2) 任意の寄付金
前者はちょっと無理があるかな。どちらにせよ、払う側が「いやだ」と言えば成立しないものだ。
実態としては、
3) 税
が一番近い。
法律で明示的に定められている訳ではないが、成員にとって否応なく徴収される所は同じだ。
しかし、徴収の仕方と使い途について住民が直接に合議で決することが可能であることを考えると、国税や住民税より遙かにましだと言える。
例えば、我が集落の「出不足金」の1日当り単価は、かつては一律で 8,000 円だったが、協議した結果、独居の婦人と障害者については半額になった。また、集めたお金の使い途については、年に一度決算報告をする。おかしな事をしていると必ず質問攻めに遭う。
田舎の集落には、都会の住人が思っているのと違って、非常に民主的なところがある、と思う。
一方で、異分子を排除する圧力は田舎の集落の方が圧倒的に強いだろう、とも思う。まあ、うちの集落などは、高齢化と人口減少に悩んでいるから、もう、誰でも良い、村に住んでくれ、ややこしいことは言わない、という感じで、かなりユルユルになっているけれど。
協議費の山林割については、実のところ、算定根拠が非常に曖昧だ。
一応、計算式はある。
・管外協議費(円) = 300円 x 賃貸価格(円)
・管内協議費(円) = 145円 x 賃貸価格(円)
で、「賃貸価格」って何? もちろん、その山林を貸し借りする場合の年間価格に違いないが、現在の価格ではなく、過去のある時点での価格であるに違いないこともまた確かだ。なぜなら、ある人の場合を例に取ると、賃貸価格が 11.43 円で、協議費が 3,429 円だからだ。
算定基準が「価格」であり「面積」でないことは納得できる。生えている木や林道の状態など、林業資産として見た山林の価値はさまざまであるから、農地のように面積だけで考えるのは不適切だ。(農地の場合も厳密に言えば価値に差があるが、山林ほどではない)
しかし、問題は、自治会が保管する文書の中から、山林の賃貸価格を記した資料を探し出せなかったことだ。それでは困るので、自治会長の諸先輩に訊いてみた。すると、いや、そういう資料は無い、山林割賦課金の一覧表があって、そこに賃貸価格が書かれている、それだけだ、と言うのである。
だから、山林割について、もし負担者から疑義を呈されたら、非常に困る。ひたすら低姿勢でお願いするしかないことになる。
(続く、かな)
トゥートしたことをコピペで自分の非公開日記に転載した。
日記がわりにマストドンを使うなら、fedibird にはトゥートの公開範囲を自分だけに設定する機能(新機能!! 良い!!)があるので、それを使うのも良いかも知れない。
自治会費の集金にかかわる心理的障壁を歴代の自治会長はどのように乗り越えてきたのか。一度、諸先輩に話を聞きたいと思う。
おそらく、いくつかパターンがあって、
1) そんなもん、村におる限り、村に財産(農地・山林)がある限り、払って当然やろ。イヤやったら出ていったらよい ... という強圧的態度で対応する型
2) お気持ちは分りますが、そこを枉げて何とかお願いします。ほかの皆さんにも御負担いただいておりますので ... という下手に出て問題を回避しようとする型
3) 自治会は、住みよく暮らしやすい村を維持するために、個人では出来ないことをいろいろとやっている。それには費用がかかる。あなたにも応分の負担をしてもらいたい ... という理屈で正面から真面目に対応する型
最後の型が望ましいことは言うまでもない。しかし、理詰めで話をするには、それなりの能力と準備が必要になるので、1) や 2) のやりかたで問題を乗り切ろうとする人も多いだろう。
(ひとまず終了。疲れた)
山の中の集落、岩座神(いさりがみ)に住む面倒くさい爺さん。
プログラミングと社内PC環境の保守を糊口の資としてきたが、引退してゆるゆると野良仕事三昧中。
本拠は @kotobaphil-mtd.eu に移しました。