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少なくとも院政期以降では、社会の頂点は治天の君であって在位中の当今ではなく、近世以降では武家国家の主催者が国制上の頂点に当たる。近世朝廷の廷臣は、天皇ではなくて将軍によりその知行の安堵を受けている。あるいは上皇・天皇は本邦敬語体系上の「最上位」、とは言えるのかもしれないが、社会的役割とは一致をみない、いわば古い王権・王統にすぎなかった。

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社会的役割の「頂点」が天皇だ(だった)という見解は、近代日本についてしか当てはまらない。少なくとも古代を脱した前近代伝統社会ではそんなことはなかったものと断定できる。大政委任論のような特定の史観を信じすぎであろう。

以前に琉大のアメリカ史の先生が、「かつて琉球王国に侵攻し、滅亡に追いやった『ヤマト』の末裔として」うんぬんと、ある書評原稿にて述べられているのを目にした。17世紀の戦争と明治維新後の琉球処分とが一緒くたにされている相当に粗雑な一文で、かつ「琉球王国に侵攻」したのは薩摩藩兵なのだから「ヤマト」総体の責任をそこで云々するのも変であろう。それとも鎮台兵の威力をバックにした琉球処分の過程を軍事侵攻として捉えている、ということだろうか。

Sho ONO さんがブースト

「ルパン3世」の呼び方の問題点は、○世というのは苗字というかファミリーネームじゃなくて、ファーストネームの方につけるのだから、「アルセーヌ3世」じゃないとおかしい、ということだと思うのです。ルパン朝アルセーヌ3世が正しい(何か見た)

こういう時は安吾でも読むに限るな。突き抜けた発想にいくらかでも接しなければ。

さすがに人間扱いされないと辛いものがある。

19世紀まで一挙に逆戻りである、というか、たんにそれ以前のような気もする。

それで「地球規模での戦国乱世と国内の平和を平定し、且つ長期間の安定をもたらし得る傑出した指導者が必要であろう」、なのだそうである。戦略ゲームでもあるまいし、何だこの表現は。

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現代世界について「地球規模での戦国乱世」と評価しているアカデミシャンをみかけた。

イスラエルの政権担当者だって「ハマース」と発音しているのに、日本のメディアは揃いもそろって「ハマス」と述べているのは何ででしょうかね。単に不正確でしょう。

然るべき立場におられる方がリベラルデモクラシー万歳、という立場表明をするとして、すると途端にLDPとの関係で身動きが取れなくなる、ということは果たしてないのであろうか。

「ネオリベラル」に「リベラル」が対立するのだという、この現代日本独特の謎観念。

近世社会のことを理解できていない近代史家は未だに多く、唖然とさせられる投稿に接することもまた多い(一方で、私が近代史の機微に通じていない、ということもまた大いにありそうではあるのだが)。

小説の登場人物が福島県内でシャブリを開けて飲んでいようが特段なんとも思わないが、東京ステーションホテルにて江藤淳を前にシャブリをオーダーする蓮實重彦については、一読した当時ムムとはなった。bookclub.kodansha.co.jp/produc

rissho.repo.nii.ac.jp/?action= この論考、どうにも論旨全体の整合性が私にはよく判らない。「回顧と展望」で取り上げられていないようにも思うが、どうか。東アジアは特殊な地域で、自由貿易帝国主義論を適用できないと述べられるのだが、そうか? 小風秀雅「不平等条約体制の再検討 ―成立から強化へ―」(2020)

道州制の実現に期待をしている教員がわりと近傍にいて(それがわかって)、溜息がでる。さすがグロヒス(?)…言うたら維新の会の方針みたいなもんじゃないか。

いっそ『歴史修正主義の哲学』と銘打って、誰か上梓してほしい。

中世以来の法治主義の伝統といった見解が日本史叙述に散見されるわけなんだが、「非理法権天」も一方の伝統にあるんで、そのへん専門家は丁寧に説明をしていただきたいところではある。

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