「イデオロギー的に偏っている」、と学術書の文中において非難された場合、ひとはどのように身を処すべきか。
自公政権、「全領主権力」にもアナロジャイズできるところがあったな。階級的結集とは言えないが。個々にバラされると、たちまち弱体化するのでは。
https://www.utp.or.jp/book/b10030790.html 東京大学出版会からの新刊、高澤紀恵/ギヨーム・カレ編『「身分」を交差させる 日本とフランスの近世』、書店配本は6月7日です!
https://twitter.com/UT_Press/status/1661278861106073605?s=20 刊行が歴研大会に間に合ったみたいです。ご関心のある向きはご確認いただければ。
https://genron-cafe.jp/event/20230525/ 宇野も、東やゲンロンのイベントによく出演しているね。
特別民間法人 社会保険診療報酬支払基金、理事長は厚労OB・神田 裕二。役員は以下のごとし☞ https://www.ssk.or.jp/goannai/kikin/soshikigaiyo/soshikigaiyo_08.html
公益社団法人 国民健康保険中央会、会長は高知市長・岡崎誠也。役員は以下のごとし☞ https://www.kokuho.or.jp/about/kikou/inf_02.html
https://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php 江戸時代が大嫌いな與那覇せんせによる、とっても有りがたい講話(またかよ)。
締切通りの史料集の校訂や出版というのは、ことのほか気力も体力も消耗を伴い、ある種ストレスフルな仕事である。嘘だと思うなら自身でやってみればいいのだ。これは歴史研究者にとってはほぼ自明な事柄に属するが、そうではない人も多いだろう(バカにする者だっている)。しかし史料のようなマテリアルの積み上げなしには一片の研究さえできないというのは歴史学のよいところであり、研究主体にとっての「受動性」は、そこでのキモとすらいえよう。着想のみではどんなに秀でていようが説得力を減じ、論考も仕上げることはできないのである。史料の出現によって、自身の考察の変更を幾度も迫られるという体験こそが、いうなれば欠くべからざる契機である。かくして、努力すればあらゆる凡人に開かれているというのも、歴史学の「長所」ではある。