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締切通りの史料集の校訂や出版というのは、ことのほか気力も体力も消耗を伴い、ある種ストレスフルな仕事である。嘘だと思うなら自身でやってみればいいのだ。これは歴史研究者にとってはほぼ自明な事柄に属するが、そうではない人も多いだろう(バカにする者だっている)。しかし史料のようなマテリアルの積み上げなしには一片の研究さえできないというのは歴史学のよいところであり、研究主体にとっての「受動性」は、そこでのキモとすらいえよう。着想のみではどんなに秀でていようが説得力を減じ、論考も仕上げることはできないのである。史料の出現によって、自身の考察の変更を幾度も迫られるという体験こそが、いうなれば欠くべからざる契機である。かくして、努力すればあらゆる凡人に開かれているというのも、歴史学の「長所」ではある。

こう考えるなら、歴史の外部は存在しないとも言いたくなるが、むしろマテリアルこそが外部性なのである、と述べるほうが、なにかしら意義があるかもしれない。

「新たなるアルシヴィスト」などと評されつつも、ミシェル・フーコーがアルシーヴに足繁く通ったといったような事実は無かったのではなかろうかと思うが、一方でそもそもBNFのような図書館なくしてフーコーによる考察が出現し得なかったことは、ごく当然に首肯されよう。歴史屋にとっては、そこにある素材こそが「史料」なのであり、今後ともそう呼び続けることであろう。

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