こちらで記事を書かせていただきました。松本人志監督映画について感じている事について。ぜひお読みいただきたいです。よろしくお願いいたします😊
【視力のお笑いシネマレンズ】第1回 松本人志監督作品の面白さ
https://movietoybox.com/archives/2023/05/31/2047/
"空気誘導芸"がふたつの側面を持つのなら、
「下の世代への吊し上げ」
「上の世代への噛み付き」
だと思います。
ビートたけしさんは今も映画を撮り続けています。
「首」という映画のプロモーションで
バイオレンス描写や性や生、死的なものへの表現を語っていました。
僕は、R100を見て
松本人志はそこら辺への、もっと現代的なグロい表現を大衆の共感含めて表現出来るんじゃないかなと、いち視聴者として勝手に期待してしまいます。
ビートたけしの直接的、組的な暴力性
とはまた違う
松本人志の間接的、学校的な暴力性
「いじめ」の面白さ
を描けるんじゃないかな、
とずっと感じています。
さや侍で野見さんに行使していた暴力
しんぼるで自意識と外界で捉えてた暴力
大日本人で最後獣が受けてたみすぼらしい暴力
そういうものを"空気誘導芸"で作品として昇華する事が出来るんじゃないのかな
と、今回のTHE SECONDでの完璧な振る舞いを見てて感じました。
キングオブコントの第一回目で上手くいかなくて大量の汗をかいていた松っちゃんを思い出しながら。
話が横道に膨らみ過ぎて完全にTHE SECONDの話ではなくなってしまいましたが、
ただ、そういった松本人志の"空気誘導芸"を中核に置いている賞レース文化全体の枝葉の先のひとつであり、邪推ではありますが、
今松本さんがワイドナショーから離れ、ガキ使大晦日をやらなくなり、探偵!ナイトスクープの局長として関西圏での磁場を強め、ドキュメンタルをAmazonプライムという場所で行っている、という大衆地点の勘所を探るなおしてる時期だと捉えられるようなある種の雲隠れムーヴの中で、
このTHE SECONDが開かれている
という事に、
神格化のアップデートを感じてしまう自分がいます。
テレビ前提世代じゃない層への震度を上げるために同世代的な磁力を一度高める運動をしようとしてるようにも見える。
そして、それはすなわち
松本人志は下の世代へのコントロール意識が強いのだとも感じます。
僕は松本さんに映画にもう一度挑戦してほしいです。
松本人志のTHE SECONDを見たいです。
このワイドナショーのコメント芸でも、たしかに自分がオリラジ中田さん当事者だったらどう感じるかを想像してみると興味深いです。(あとこの動画が音声のみだから周囲の芸能人達の反応のグラデーションの機微もうっすら感じ取れる)
ナイナイへの27時間テレビでの接し方や雑誌での腐し方、爆笑問題への楽屋で詰めたとされる噂、そこら辺の話が事件性を持って語られているという事実が、内容そのものより"空気感"を痛烈に残して漂ってる。今、時代的な流れとしてコンプライアンスの強まり、ハラスメントへの逆風、を感じ取ったからかこの頃のこれらの話は明確に言及される事なく"雪解け"したとされている変容それ自体が、現在進行形での病的なまでの"空気誘導"を覚えてしまい、ゾクゾクします。
と同時に別視点、もう少し俯瞰で賞レースの外側、松本人志という芸人に絞ってさらに全体像として見てみると、
ちょっと前にオリエンタルラジオの中田敦彦さんが街録チャンネルで、そこら辺の事を言及しているシーンがありました。
この動画だけだと、中田さん視点のみからしか語られていないし、中核的な部分へのちゃんとした発言は避けてはいるし、この動画そのもののコンテンツとしての構造や立場とかも踏まえると、一概にどうとは言えない代物だとは思うのですが、
この人が松本人志をどう語るかという事には、何らかの見越せる空気感はあるのだと感じます。
というか、たぶん世代的に少し遡るとやはり出てくるのは、ナイナイや爆笑問題へ行使したであろう"空気誘導芸"の有無。
それが芸人さんたちの内側の空気感からうっすら漏れ伝わってくる感じがゾクゾクして面白いです。
あそこで松本人志が笑いを取りながらも、そういう釘指し言及をしてみせて、その瞬間に東野幸治が「ウケればええもんやない!」とプロレス的に反復していたところに、チームプレーと階級統制意識みたいなものを覚えてゾクゾクするような面白さを感じました。
ここまでで一応言っておくと、個人的にこういう松本人志の "空気誘導芸" は、めちゃくちゃ面白いと思っています。恐ろしさと同時にその行為自体の異様性に目が離せなくなる。
学校や職場にこういう事をする人がいたら、
怖いなぁ…嫌だなぁ…と思いますが
お笑いとして披露されて、ここまでの世界観と支持基盤を作れる事そのものに狂喜を感じてめちゃくちゃ面白いです。
賞レースそのものの立脚と産業としての運営を、
この"空気誘導芸"だけで成立させている
と言っても過言じゃありません。
そういうド変態デスゲームの主犯者みたいに見えて面白いです。
こう言うと悪く聞こえてしまうかもしれませんが、もちろん良き支配者として必須能力でもあると思ってて
マシンガンズの点数が思ったより低くて、ギャロップが開票前に「嬉しいです」とボケた時とかの、松本さんの笑いを交えた制し方とか、普通に大会として成立させるために必要な言及だったと思うし、ああいう事が出来るのも松本さんならではだと感じます。
(地下時代の三四郎の漫才を見ると、ああいうメタ漫才の方がそもそも持ち芸だった事も確認出来ます。個人的に原点回帰に見えました。)
むしろ審査を行う立場じゃないからこそ、その「空気の誘導」に感嘆と恐ろしさを同時に感じたと言いますか、
観客審査に影響しないようにコメントを控えているかのようなスタンスで、要所要所で明らかにコントロール感は出てたと思います。
特に、三四郎の一本目終わりのとこ
たしかにメタ視点の漫才で、この手法が観客のウケ的に"あり"な空気になりすぎると、この場面だけじゃなくてその後の賞レース全体の流れに影響が出るんじゃないかと
(もっと言えば、三四郎が出していた辺りのワード的に関東コント師の主軸になりすぎる可能性、そっちの方の内輪が拡大する予見)
そういう雰囲気に対して『息切れ』という単語を挟み込む事で、ちょっと見てる人の加熱を冷めさせる効果は生んでいたと感じます。
(もちろん、それは三四郎側も踏まえた上でああいう手法を行っていたのだろうし、なんなら小宮さん単体で見れば、そういう面白さの空気的共有をコントロールするタイプいう松本さんに近い能力の持ち主だと思うので、けっこうショーアップしながらも抵抗てみせる攻防を繰り広げていたと思いました。三四郎のANN0の空気に近い笑いをあえて賞レースの場に持ってきてた、そしてそれを松本さんが感知して少し制した、というひとつの見方が出来ると思います。)
THE SECONDでの松本人志の立ち位置と空間支配能力に、「お笑い地政学」で西村紗知さんが言っていた、
"オピニオンリーダー芸"
の真髄を見た気がした。
メンバーシップ始めました。
視力のアーカイブマップとして運営していこうと思います。
もしよかったらご支援いただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
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ぼんやりとした感覚で、もう少し詳しく説明してみようと思うのですが、「"モノマネ"ショーパブ」という原風景がどういう影響をオードリーに与えているのか、勝手ながら想像してみると、
なんかそこにやはり「擬似芸能界性」みたいな情報伝達が介在している気がしてて、
前述のビートたけしと比較すると、
「映画館」が「舞台芸能を中心とする興行」の土台の上に映像と客席をシンクロさせる事に成功していた場所として、そこを飛び越えて「テレビ」という映画館2.0的な断層に飛び上がってるような感覚を覚えるのに対し
「モノマネショーパブ(の"モノマネ"部分)」が
「テレビを土台としたタレントの芸能界」の土台の上に共同幻想と客席(出張的なお茶の間とも言える。たぶんこれはキャバクラとかホスト、コンカフェ的な飲食接客業とかとも関連してる。それな半テレビと捉えられるゆえん)をシンクロさせて無数に枝葉が分かれていた分裂的な場所から、それを飛び越えて"春日"という擬似的な大物を作り出してそれを悪ノリ含めて面白がる「半ネット」的な地点までも突き刺さらせれたところが、若林さんの所業に感じています。
春日というキャラの共同幻想性は、
ショーパブ2.0。
そこに言語化されてない主要メディアがあって介在してたんじゃないかなと思っています。
オードリーとか面白いなと感じるのは、
よく自己言及している、
出自が「ショーパブ」だという話。
ビートたけしが語る、浅草の劇場、キャバレー、ストリップ小屋みたいな地点とはまたちょっと違う、土着的な芸人物語幻想がある場所だとも感じます。
たしか、とんねるずとかダチョウ倶楽部やヒロミ辺りが、バブルの頃のクラブ文化みたいな場所で下積み時代にネタをしてた、というエピソードを聞いたことがあります。それのもうひとまわり後の世代がオードリーだと思います。
なので、ビートたけしがあえてブームが過ぎ去って廃れた浅草を「死に場所」として選んだみたいな芸美談の、2000年代版的な意識があったようにも感じる。
なんというか、
モノマネショーパブと
爆笑レッドカーペットのような2000年代後半の一発屋ショートネタお笑いブームって、
すごく薄い内壁で隣接していると漠然と思っていて、
そこには、2ちゃんねるやニコニコ動画的な黎明期とも呼べるネット文化とかも、一発屋芸人を生む仕組みとして混ざってたともなんとなく感じます。
オードリーはその地点から、旧態になりかけのテレビという大衆地点と、ラジオやテレ東辺りの飽和したサブカル地点の、両面を使いこなして、メディア連動配信イベント的な新規領域で結果を残してるという状態に見えます。
ビートたけしが浅草からテレビの世界に出てきて、今映画監督として大成しているのが、時代と主要メディア転換の流動に身を置こうとしたんじゃないかなぁ…という心情が感じられて良いなと思います。世代的な共有はしていないし、なんとなくの憶測で言葉にしているのですが。
もしかしたら、浅い視座に聞こえるかもしれないのですが、YouTuberが有名になってテレビに出ようとしてゆく運動に近いものを感じています。
かつての映画館の立ち位置は、
劇場舞台に対しての新規メディアだっただろうし、
その映画館も新規メディアとしてテレビが表れた時に旧態的な立ち位置に移行したのだろうし、
そして、そのテレビも新規メディアとしてのネットが表れた段階でゆっくりと立ち位置が世代交代を成されていったのだと、
ざっくりとそういう認識でいいんじゃないかなと思っています。
劇場(旧態)→テレビ(新規)→映画(中間領域)
みたいな着地点にビートたけしさんは狙って動いていたとも勝手ながら想像しちゃいます。
そういった天下人の現時点の生息地としての主要メディアを見てると面白いです。
松本人志がドキュメンタルをAmazonプライムでやってたり、
さまぁ~ずがYouTubeにけっこう力を入れてたり、
メディアとその中心時代性を感じます。