<戦世ぬ沖縄(うちなー) 戦後80年>(10) 戦争協力も日本軍に虐殺 教育者の父、皇民化実践 - 琉球新報デジタル https://ryukyushimpo.jp/news/national/entry-3809253.html
“1945年の沖縄戦のさなか、照屋忠英さん=当時53歳=はスパイと疑われ、本島北部で日本軍に殺された。耳が遠かったことが理由の一つとされる。”
“忠英さんは校長として、率先して皇民化教育を実践した。満州事変から2年後の1933年、今帰仁村の天底尋常高等小学校で「御真影」(天皇、皇后両陛下の写真)への礼拝を始め、日中戦争が拡大した38年には「荘厳県下一」とも言われた、御真影などを入れる奉安殿を建立。子どもたちに、周辺諸国と比べて日本の優越性や国のために死ねる価値観を強いた。”
“4月1日以降、米軍が上陸して戦車で向かっていた。忠英さんは山の上から見て、周辺の第32軍の国頭支隊(宇土部隊)に報告に行こうとした。「行くな」と忠英さんの兄が止めるのを振り切り、「何かあれば国に身をささげる。お母さんを頼む」。毬子さんにそう言い残して。
その頃、首里城地下で指揮を執っていた第32軍の牛島満司令官や長勇参謀長は、県民のスパイ視と虐殺につながる、ある命令を出していた。”
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“沖縄に配備された第32軍は地上戦を想定する中、沖縄の住民に「軍官民共生共死」を強いた。一方、第32軍の牛島満司令官や長勇参謀長は、当初から県民に不信感を抱いていた。45年4月1日の米軍の沖縄本島上陸以降、首里城地下の第32軍司令部壕から、県民のスパイ視と虐殺につながる命令を出した。
「沖縄語をもって談話しあるものは間諜(スパイ)とみなし処分す」”