https://neverforget1945.hatenablog.com/entry/1945/04/13/000000
“4月3日の天皇発言と大本営からの圧力は第32軍を絶望的な混乱に陥れた。
「4月3日以来、第32軍は攻勢を決意し(3日夜)、攻勢延期(5日)、攻勢再決意(5日夜)、総攻撃を一部の夜襲に変更(7日)、一部の夜襲実施(8日)、次期攻勢の研究、決意(8日〜10日)、有力部隊をもってする殺傷攻撃の実施(12日)と、情勢に応じて攻撃要領も変化した。」
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》
日本軍の機密情報は、無線傍受 *1や太平洋の戦場での日本兵の遺体から回収された文書に加え、本部半島で撤退した宇土部隊の壕から機密資料が大量に米軍にわたっていた。しかし日本軍は不利な戦況の理由付けとして民間人を疑い、沖縄人が「スパイ」としてスケープゴートにされていった。軍はスパイという言葉を振りかざし、民間人への搾取・収奪にとどまらず、暴力・虐殺を肯定した。”
https://ryukyushimpo.jp/news/national/entry-3813471.html
“沖縄に配備された第32軍は地上戦を想定する中、沖縄の住民に「軍官民共生共死」を強いた。一方、第32軍の牛島満司令官や長勇参謀長は、当初から県民に不信感を抱いていた。45年4月1日の米軍の沖縄本島上陸以降、首里城地下の第32軍司令部壕から、県民のスパイ視と虐殺につながる命令を出した。
「沖縄語をもって談話しあるものは間諜(スパイ)とみなし処分す」”