「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは | 47リポーターズ | 沖縄タイムス+プラス https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1493469
“「以前から、もうこんな国で生きるのは嫌だと感じてたから、早く死んだ方がいいやって思って、それで船舶の部隊を受験した。飛行機よりも死亡率が高いと言われててね。ぐずぐず教育なんてやってないで、早く戦争行けって思ってた」
1945年1月、訓練施設があった香川県豊浜町(当時)に移動。初日こそ「体罰はしない」と言われたが、2日目から上官の暴力が始まったという。上官たちは、父親が陸軍大佐だった塚本さんに手を出すことはほとんどなかったが、同期生たちには一切遠慮なく体罰を与えた。”
“同期生たちとは「俺たちは何のために死んでいくんだ?」という議論になった。哲学者カントの読書サークルを秘密裏に組織し、勉強会を開いていたという。「カントは平和主義だから。みんな、『俺たちは天皇のために死ぬんじゃない。もし日本が米軍に占領されたらどんな目に遭うか分からないから、そのために死ぬのはしょうがない』って話になった」”
“隊の解散時には、積もりに積もった区隊長への恨みから「船の中で毛布をかぶせてボコボコにしよう」という話が持ち上がった。「でも、船にはまだ憲兵がいて、捕まったらばからしいって話になって結局、やらなかった。他の隊では、上官に歩兵銃を突きつけたところもあったようですね」
その後、塚本さんは東京に帰って中央大に復学。「資本論」など、かつての発禁本が自由に読めるような時代になったのを喜んだ。”
“その間、父・保次さんの生死は不明なままだった。
実は、6月23日の第32軍司令官・牛島満中将の自決後、「祖国のため最後まで敢闘せよ」という司令官の命令に従い、保次さんは沖縄本島南部の洞窟に潜伏していた。芋や米兵の残飯などを盗みながら命をつないだという。
通信技術の専門で航空情報隊の隊長だった保次さんは、終戦への動きも電波を傍受して察知していたとみられるが、8月17日になって安全を確かめながら米軍に投降。その際に米軍将校から、降伏を拒み続けている部隊への説得を依頼された。”
“米軍の捕虜収容所では高級参謀・八原博通大佐と再会。八原大佐から依頼され、沖縄戦についての記録を残すための収容所内での聞き取り活動に協力した。”