“15日に「ラジオ放送があるから集まれ」と招集された。いわゆる玉音放送だったが「ガーガー音がするだけで何言ってるか分からなかった」
翌日、海軍機が飛んできて「政府は降伏したがわれわれは降伏しない。戦おう」と戦争継続を呼びかけるビラがまかれた。その翌日にも「まだ戦争しているから続けるように」と伝えに来た飛行士がいた。だが数日後、ついに皇族から「戦争をやめるように」と連絡があったという。
すると区隊長は、隊員たちにこう迫った。
「こうなったらしょうがない。天皇陛下におわびして切腹しよう。賛成の者は手を挙げよ」
隊員たちは皆、顔を見合わせながら手を挙げた。塚本さんも最後になって渋々、手を挙げたという。全員、兵舎に戻り、買わされた軍刀を手にした。
「でも、いざ振ってみても全然切れない。そのころの軍刀なんて、なまくらだったんですよ。昔の立派な日本刀なんかじゃない。みんなして『こんなもんで切れるかよ』って叫んでね。結局、誰も本気じゃなかったんです」”
“隊の解散時には、積もりに積もった区隊長への恨みから「船の中で毛布をかぶせてボコボコにしよう」という話が持ち上がった。「でも、船にはまだ憲兵がいて、捕まったらばからしいって話になって結局、やらなかった。他の隊では、上官に歩兵銃を突きつけたところもあったようですね」
その後、塚本さんは東京に帰って中央大に復学。「資本論」など、かつての発禁本が自由に読めるような時代になったのを喜んだ。”
“その間、父・保次さんの生死は不明なままだった。
実は、6月23日の第32軍司令官・牛島満中将の自決後、「祖国のため最後まで敢闘せよ」という司令官の命令に従い、保次さんは沖縄本島南部の洞窟に潜伏していた。芋や米兵の残飯などを盗みながら命をつないだという。
通信技術の専門で航空情報隊の隊長だった保次さんは、終戦への動きも電波を傍受して察知していたとみられるが、8月17日になって安全を確かめながら米軍に投降。その際に米軍将校から、降伏を拒み続けている部隊への説得を依頼された。”
“米軍の捕虜収容所では高級参謀・八原博通大佐と再会。八原大佐から依頼され、沖縄戦についての記録を残すための収容所内での聞き取り活動に協力した。”