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澤野雅樹の「死/の写真を撮ってこい」というバロウズ論、初出が1997年なんだけどすごく虐殺器官を思わせるような内容でびっくりした。伊藤計劃はこれを読んでいたのだろうか。

"周知のようにレヴィ=ストロースは構造の不変性を前提しているが、それは構造の堅固さを強調するためではなく、むしろ算術計算に際して四則演算の規則の不変性を前提するのと同じことを行うためである。(…)言い換えるなら、構造が不変なのは一種の取り決めによってであるに過ぎない。もし構造主義が静的だという非難に的外れなところがあるとすれば、それは四則演算の規則が不変であり、静的だと告発する滑稽さに相通ずるところがあるからである。他方、もし同じ批判が的を射ているとするなら、それぞれの変換群が構造だけでなく、それに結びつく個々の社会的かつ政治的な諸条件とどのように関わり合い、渡り合っているのか、という問題が等閑視されてしまう危険があるからである。"

澤野雅樹「死と自由 フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ」(p.81~82)

東京都現代美術館のドラァグ・クイーンの読み聞かせイベントに向けられたバッシングや包括的性教育へのバックラッシュなど、クィアをめぐる政治の中で「子供」は重要なポジションを占めている。この問題はエーデルマンの批判する「再生産未来主義」を乗り越えた場所で語られないといけない。

ルジャンドルは「子の繁殖」をなにより重視しているのでクィアとは相性が悪い感じがするけど、クィアな主体が子供をつくろうがつくるまいが事実として今日もどこかで子供は生まれ続け、その中には将来クィアに成長する子供もいる。そういう観点から、生殖とは違った地平で「子供」のことを考えるのならクィア理論とルジャンドルはもっと接近できると考えている。

"個々の父親は、「至高者=主権者」の、つまり〈絶対的父〉の、代理ですらない。それは「論理的中継点」であり、〈絶対的準拠〉たる〈神〉に自らの子が同一化しないようにするための「防波堤」にすぎない。論理的中継点である以上、父親は子に「おまえは全能ではない、わたしも全能ではないのだから」と──危うくも──語りかける者であるということになる。"

(佐々木中「定本 夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル 上」p.348)

最近は佐々木中の夜戦と永遠をちまちま読んでる。非常に男性学的なテクストで、特に今読んでるルジャンドルの章では、「父」が「息子」に自分の喪失と無力さを曝すことについて書かれてる。

不具合なのかいろんなものが反映されるの遅い

ついにマストドンの時代が来るのか??

千田有紀のトランス差別のFacebook投稿に朴裕河がいいねを押してるのを流れてきたツイートで見た。意外性はないがあんたもかいという気持ちになった。

世季子 さんがブースト

→ 先日刊行イベントのあった『ACE』も著者のチェンが時折「ACEはAlloと違ってsexに関して解像度高くならざるを得ないので」みたいな言い方になる箇所があって、いや最終的にAceラベルを採用しようがAlloラベルを採用しようが考えない人は考えないし考える人は考えてるでしょ、と思ってそこは気になっていたんだけれど。

というかそもそもチェンが「性的」という時に念頭に置かれているのが(BDSMの例とかも出してはきているけれども結局のところは)性器接触を中心としたエロティシズムであるように読める部分もあって、sexをざっくり考えてるのどっちだよ〜と思ったりとか。

(例えばバーラントとワーナーがかなり昔に論文で例に出していた「強制給餌/嘔吐をめぐる身体的な親密性」とか、私は感覚としてはわからないけど、あれは性的と言うのか言わないのか、それを性的と呼ぶこと/呼ばないことそれぞれの政治的な意味は、とか考えるのですが)

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パレスチナの「分離壁」左派の方が親和的で領土の拡大を狙う右派の方が否定的なのか。

アイコンとして情勢を見るのではなく、テクストとして情勢を読むこと。

マルクス研究者の間でじわじわとトランス排除の風潮が広まっているのだろうか。やっぱり森田成也の影響が大きいのだろうか。

めちゃくちゃ個人的な感性の問題だし全然内容関係ないのだけど、例のトランス差別の漫画、女の人のデフォルメされた顔がめちゃくちゃムカつくデザインですごいと思う。われわれを煽るためなのだろうか……。

世季子 さんがブースト

日経の広告、ミモザカラーを使いたいのはわかるけどAwichは絶対にあんな淡いイエローのイメージじゃないし、やりたいことと起用キャラクターが合ってないって印象。Awichのメッセージも面白くないし、、、、やるならオールブラックでもっと攻めた画面にしてほしかった

わたしも何か書かないとなと感じているのだけど、どこに何を書けばいいのか分からない。

"(…) ペギー・カムフは、アメリカ人フェミニストや人文主義者の経験主義をフーコーに依拠しながら批判し、「知識、とりわけ女性に関する知識の蓄積という経験主義的な手法を通して、ついには絶対的な真実に到達するという揺るぎない確信」が多くのフェミニスト思想の前提になっているとして、警告を発する(Kamuf1982,p.45)。続けて彼女は、見かけ上は新しい人文主義の問題をこう指摘する。「そこには、これまで女性に関する知識を支援してこなかった権力構造の内部でさえも、そうした識が生まれうるとする暗黙の前提がある。だが、「わたしたち」と言ってしまうことが、最終的には明確にして完全無欠なものが生みだされることへの確信と同じでないなら、女性に関する知識を排除する構造が今にいたるまで続いてきたのはどういうことだろうか」"(同書 p.253~254)

"そうした批判は、皮肉にも、西洋フェミニズムの言説は有色人女性や第三世界の女性には無関係で当てはまらないという前提から出発している。この前提は、西洋の白人女性の状況を明らかにするためにフェミニズム言説をひとくくりにするのは妥当だと暗黙のうちに想定しているが、それこそわたしたちが異議を唱えたいものだ。そうした想定に疑問を投げかけ、二極化を再生産してもただ「フェミニズム」を再び三たび「西洋」に譲り渡すだけだと言いたいのである。結果は、架空でしかない西洋の均質性や、言説上も政治的にも安定しているかに見える西洋と東洋の階層的な分断を、覆せないだけである。"(C・T・モーハンティー 境界なきフェミニズム p.128)

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