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昨日の「山谷 やられたらやりかえせ」と「狼をさがして」の2本立上映の後、足立正生監督のトークで山谷をパレスチナで上映会したとき、パレスチナ人が都市の中でも抵抗は可能なんだと勇気付けられていたという話を聞いた。パレスチナ人は農民の土地奪回運動として三里塚には共感したけど、都市の労働者運動である山谷には共感してくれるだろうかと足立監督は最初不安だったそう。

世季子 さんがブースト

「トランス差別」には関心があるけれど、トランスの人たちが生きている現実や、トランスジェンダーという集団を取り巻いている差別的な法律や制度には何の関心もない人がたくさんいる。そんな人はトランスアライでもなんでもない。

ジュネのパレスチナ擁護はベンヤミンの言う「政治の美学化」に過ぎないのでは?という疑問を持っていたが鵜飼哲の『応答する力』に収録されている「裸と盲目」というテクストを読んでなるほど〜と思った。

世季子 さんがブースト

自己管理での妊娠中絶(中絶薬を使用するもの)に関する情報周知の必要について。

以前にも、妊娠中絶の権利について、米国では当初は女性たちが自分たちの手に妊娠中絶を取り戻す運動をしていた(比較的安全に妊娠中絶処置を行う医師を紹介し、必要があれば処置の必要な女性をそこまで連れて行くようなネットワークを作っていた)のが、徐々に法的権利闘争に力点が絞られ、ロウvウェイドの判決をへてその傾向はますます強まった、とどこかで読んだか聞いたかしたことがある。

それに対して、メキシコだったかな?中南米のどこかだったけれども、そういういわば「違法」なネットワークを維持して確固たるものにして行くことに力点が置かれてきた、と。そもそも政府を信じられないし、何があっても自分たちのネットワークは残る。

どちらが良いという話ではないけれども、「違法」なネットワークの構築というのはラディカルフェミニズムの精神により近くはあるのだろうし、それが米国で戻ってきていると考えるべきなのだろうか、だとしたらそこにはどのような政治的意味があるのか、などと考えている。

truthout.org/articles/learning

グレアム・ハーマンがアルフォンソ・リンギスの弟子筋なの初めて知った

気散じは、情報技術に媒介された世界が発する騒々しい刺激の襲撃をかわし、ファンタスマゴリーに満たされた世界の背後を「まさにここ」として感じ直し、ここに出て、降り立つことを可能にする姿勢を意味している。気散じは、外的刺激に気を取られ、思考停止になることを意味しない。逆である。刺激に介入するのではなく、それを自らの内に取り込み、音楽や映像作品にしていくことで現実知覚の解像度を高め、実際に起きているのが何であるかをしっかり感知し思考するための条件である。

篠原雅武『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』p.53~54

しかし「夜戦と永遠」を読んでしまったあとだと自己への配慮だとかをシンプルに称揚するものは読んでてもの足りないなあと感じてしまうな。

澤野雅樹の「死/の写真を撮ってこい」というバロウズ論、初出が1997年なんだけどすごく虐殺器官を思わせるような内容でびっくりした。伊藤計劃はこれを読んでいたのだろうか。

"周知のようにレヴィ=ストロースは構造の不変性を前提しているが、それは構造の堅固さを強調するためではなく、むしろ算術計算に際して四則演算の規則の不変性を前提するのと同じことを行うためである。(…)言い換えるなら、構造が不変なのは一種の取り決めによってであるに過ぎない。もし構造主義が静的だという非難に的外れなところがあるとすれば、それは四則演算の規則が不変であり、静的だと告発する滑稽さに相通ずるところがあるからである。他方、もし同じ批判が的を射ているとするなら、それぞれの変換群が構造だけでなく、それに結びつく個々の社会的かつ政治的な諸条件とどのように関わり合い、渡り合っているのか、という問題が等閑視されてしまう危険があるからである。"

澤野雅樹「死と自由 フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ」(p.81~82)

東京都現代美術館のドラァグ・クイーンの読み聞かせイベントに向けられたバッシングや包括的性教育へのバックラッシュなど、クィアをめぐる政治の中で「子供」は重要なポジションを占めている。この問題はエーデルマンの批判する「再生産未来主義」を乗り越えた場所で語られないといけない。

ルジャンドルは「子の繁殖」をなにより重視しているのでクィアとは相性が悪い感じがするけど、クィアな主体が子供をつくろうがつくるまいが事実として今日もどこかで子供は生まれ続け、その中には将来クィアに成長する子供もいる。そういう観点から、生殖とは違った地平で「子供」のことを考えるのならクィア理論とルジャンドルはもっと接近できると考えている。

"個々の父親は、「至高者=主権者」の、つまり〈絶対的父〉の、代理ですらない。それは「論理的中継点」であり、〈絶対的準拠〉たる〈神〉に自らの子が同一化しないようにするための「防波堤」にすぎない。論理的中継点である以上、父親は子に「おまえは全能ではない、わたしも全能ではないのだから」と──危うくも──語りかける者であるということになる。"

(佐々木中「定本 夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル 上」p.348)

最近は佐々木中の夜戦と永遠をちまちま読んでる。非常に男性学的なテクストで、特に今読んでるルジャンドルの章では、「父」が「息子」に自分の喪失と無力さを曝すことについて書かれてる。

不具合なのかいろんなものが反映されるの遅い

ついにマストドンの時代が来るのか??

千田有紀のトランス差別のFacebook投稿に朴裕河がいいねを押してるのを流れてきたツイートで見た。意外性はないがあんたもかいという気持ちになった。

世季子 さんがブースト

→ 先日刊行イベントのあった『ACE』も著者のチェンが時折「ACEはAlloと違ってsexに関して解像度高くならざるを得ないので」みたいな言い方になる箇所があって、いや最終的にAceラベルを採用しようがAlloラベルを採用しようが考えない人は考えないし考える人は考えてるでしょ、と思ってそこは気になっていたんだけれど。

というかそもそもチェンが「性的」という時に念頭に置かれているのが(BDSMの例とかも出してはきているけれども結局のところは)性器接触を中心としたエロティシズムであるように読める部分もあって、sexをざっくり考えてるのどっちだよ〜と思ったりとか。

(例えばバーラントとワーナーがかなり昔に論文で例に出していた「強制給餌/嘔吐をめぐる身体的な親密性」とか、私は感覚としてはわからないけど、あれは性的と言うのか言わないのか、それを性的と呼ぶこと/呼ばないことそれぞれの政治的な意味は、とか考えるのですが)

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パレスチナの「分離壁」左派の方が親和的で領土の拡大を狙う右派の方が否定的なのか。

アイコンとして情勢を見るのではなく、テクストとして情勢を読むこと。

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