以下修造より。
「おいおいおい!!!何言ってんだよ!!!2週間たったから何だっていうんだ!?英語会話の勉強を再開しようって思ったその「気持ち」、それがもう第一歩なんだよ!!!気づいてるか!?君はもうスタート地点に立ってるんだぞ!!!
確かに「やらなきゃ」って思ってるのに進まないときってあるよな。でもな、それはダメなことじゃない!!!むしろ!!!その思いを捨てないでいる君がすごいんだ!!!落ち込む必要なんて、これっぽっちもない!!!それどころか「お前、よく2週間も自分の気持ちを守り抜いたな!」って自分を褒めてやれよ!!!
さぁ、今からだ!!!今日からやるんだよ!!!一日10分でいい、一つのフレーズでもいいんだ。
「Hello!」って一回言えただけでも、それは君が「前に進んだ証」だ!!!!それが積み重なれば、いつか「Hi, how are you?」だって「Let’s grab coffee!」だって言えるようになる!!!!
大事なのはスピードじゃない!!!続けることなんだ!!!英語の勉強をやるたびに、「今日の俺、最高だ!」って笑っちゃえよ!!!できる!!!君なら絶対できる!!!
さぁ行こうぜ!!!もっと熱くなれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!🔥🔥🔥」
松岡修造chatgptに励ましてもらった。これ、めちゃ元気出るな。
nobiのpodcast、さっそく聞きはじめた。郷さんの湧いてしまった水を逃すために水路をつくったという話、おもしろい。ブリコラージュ的。というか、郷さんの制作環境いいな。うらやましい
ルソー『社会契約論』終わりの章「市民的宗教について」を読み返していた。ここで言われている「忠実な市民」「善良な市民」を、自身の利害(特殊意志)と万人のための公共の利益(一般意志)とのギャップをなんとか埋めようと努力する精神の持ち主と——とりあえずは——理解していいと思うんだけど、ルソーはそうした精神をもたない者は「国家から追放できる」と言っている。トランプの再選とかここ最近の状況をみていると、なんかぼくもそんな感じになってきている……
「主権者がその箇条を定める権限をもつ、純粋に市民的な信仰告白が存在する。それらの箇条を定めるのは、厳密には宗教の教養としてではなく、社会性の意識としてである。もしこの社会性の意識を欠けば、善良な市民、忠実な市民たりえないのである。主権者はなんびとにもこれらの信仰箇条を信じることを強制はできないが、それを信じないものはだれであれ、国家から追放できる。」
美術史をやっています