いやー、貴族の家に生まれたかったな。ケネス・クラークみたいにティントレットの絵画を誕生日プレゼントにもらって、「これいらない」とか言いたいよ。
授業で事前に用意したものよりも、時事ネタと絡めて即興的にしゃべるほうが、学生は聞く。それはまったく正しいんでだけど、力量的にむずい。数十分くらいならいけるけど、1時間半はきびしい、ぼくには。というか、毎週1時間半それができるって達人の域だよ。
身軽に話す批評の語りいいな。ただ美術についてあれこれ雑談している番組やりたいかも。
https://www.youtube.com/watch?v=kA3PzEZLh6E&ab_channel=蜘蛛と箒
「中国に兵隊で行き、ひと一人傷つけもしなかったが、一度、銃殺刑の銃手を命ぜられた時があった。私は狙いを外して空を討ったが、しかし他の弾で受刑者は死んだ。私は今でも割り切れない気持でいる。」
鶴岡政男の手記を読むと、権力というものの恐ろしさを感じる。鶴岡のようなひとですら、無惨に権力に巻き込まれてしまう。空を打ったとしても人殺しの役目を誰かに押し付けたにすぎない。そうした「権力のメカニズム」(織田)からの逃れ得なさ、出口のなさこそが、権力の本当の恐ろしさだ。
織田は曺良奎もこの文脈から評価する。日本の(かりそめの)平和は「朝鮮戦争で消えた無数の死者と戦火に追われ追われた朝鮮人大衆の犠牲」の代償のうえに成り立っており、そうした朝鮮特需によってもたらされた高度経済成長の裏で抑圧された朝鮮の状況を主体化できている唯一の試みだ、と。
ん、インスタみたら、天重さんのお母さんらしきお人にフォローされとる。
宮下さんの投稿を読んで、先日読んだレオ・スタインバーグのテクスト("Contemporary Art and the Plight of its Public")を思い出した。彼は、現代美術との遭遇を「信仰」の問題としてとらえている。それはスタインバーグがユダヤ人だからだろうけど、とても重要だと思う。理解できない作品と出会うとき、ぼくらは「不安」に思い、場合によって「嫌悪」さえ感じるが、そのとき、理解できないものに対する信仰と、自身がいままでもっていた価値観を「犠牲」にする勇気が試されるのだ、とスタインバーグはいう。みずからの「不安」と対峙することは、だから、きわめて政治的かつ倫理的な態度でもある。
美術史をやっています