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物書きには完璧主義(強迫神経症)のひとが多い気がするんだけど、みんな、自分の症状とどうやってつきやっているのか知りたい。

グリーンバーグのフォーマリズムって一種のマテリアリズムで、フォーマリズムの系譜のなかでは特殊な部類。しかも、純粋フォーマリズムの美術史家なんて、ほぼいない。みんなさまざまな方法論の合わせ技でやっている。美術をやっているひとでもフォーマリズムというと、即グリーンバーグですかみたいになる誤解を解くことからはじめるのめんどい。

これいい作品だよ。ピサロはいつか論じたいけど、たいへんそう。

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今日は精神的につらいことがあったが、明日からは自身の活動を粛々と。それが支えになる。

執筆ってなんだか修行みたいだな。

ほかのひとにも聞いてみたいけど、ぼくの場合、基本的にファミレスで書いたりとか、音楽をかけながら書いたりとか音がないと書けない。そして、これが重要なのだが、散々苦しんだ末の疲労を経ないと書けない。これはつまり、「こういう言い回しを使いたい」とか「こう書きたい」みたいな自意識(雑念)があると書けない、ということなんだけど、「私」がいったん削除されたときにはじめて「書けているぞ」と思える。

荒川ナッシュ医展を見てきた。洗練されたとてもいい展覧会だったけど、うーん。

戦うべき「悪」は自分の中にいるんだと
「世界」のせいにしちゃダメだと僕はそう思ったんだ

何かを変えるってことは自分自身を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
「僕ら」が変わるってことは「世界」を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
リーガルリリー「天使と悪魔 」

リーガルリリーの「天使と悪魔」を聴いていて唐突に思い出したけど、ある人の差別発言に対して「まったく理解できない」って言った友人がいたけど、いまの優勢ってそんな感じだよなあ。道徳的な規範から善悪を判断するという。
どんな価値観や出来事にも背景がありコンテクストがある——たとえホロコーストのような「悪」にも。自分の立場を離れて物事の複雑性をとらえること。そうでなければ、「正しさ」どうしの戦争になるだろう。
youtube.com/watch?v=B7mPgrUXE6

エミリー・ディキンソンの「わたしは「美」のために死んだ――が」は、パノフスキーが述べた美術史の課題——「ほおっておけばうずもれたままでいるものに生命を与えること」——と響き合っているように思う。
墓のなかで、一方は美のために死に、他方は真実のために死んだふたりが、「やがて苔が唇にせまり」「わたしたちの名を」「おおいつくすまで」語り合う。
これは芸術の譬喩だと言えなくもない。芸術作品は作者が死んだあとも生き続ける。すなわち「死後の生」を生きる。だがそれは「語られる」限りでのことだ。語りが止んだ瞬間、「苔が唇にせまりおおいつく」された瞬間、作品は死ぬ。だから、作品について語ること——批評——は、作品に生を与えること、墓の中で誰に聞かれることなく発し続けている沈黙の言葉を聴取することである。

今日はフリードの「芸術と客体性」から『没入と演劇性』を経て『Why Photography Matters As Art As Never Before』までを一気にやったけど、学生から難しかったという感想を。基本的な図式は一緒なのでいけるかなと思ったけど、やはり無理がやりましたね。

なんとなく出てきた言葉だが、「幸多からんことを願って書き進める」っていいな。書いている最中は、思考がグルグル回っていて、それどころではないが。

うっかりすると引き込まれそうになるけど、状況論的なものからは距離を取ること。作品分析を手放さず、歴史的なコンテクストと言説分析を撚り合わせて書くこと。

反省的な視点はとりあえず入れない。幸多からんことを願って書き進める。

いいじゃないか。女性ボーカルが「ぼくの歌」を歌う。
【準グランプリ】県立上鶴間高等学校 TRE@SON|第11回全国高等学校軽音楽コンテスト
youtube.com/watch?v=Lj7i9cTzIC

ぼくは学部生のころ——院生のころもだけど、そしていまもだけど——引きこもっていたからな。これくらいアクティヴに動いてもよかったかもと思わなくもないけど、人それぞれということで。

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