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エミリー・ディキンソンの「わたしは「美」のために死んだ――が」は、パノフスキーが述べた美術史の課題——「ほおっておけばうずもれたままでいるものに生命を与えること」——と響き合っているように思う。
墓のなかで、一方は美のために死に、他方は真実のために死んだふたりが、「やがて苔が唇にせまり」「わたしたちの名を」「おおいつくすまで」語り合う。
これは芸術の譬喩だと言えなくもない。芸術作品は作者が死んだあとも生き続ける。すなわち「死後の生」を生きる。だがそれは「語られる」限りでのことだ。語りが止んだ瞬間、「苔が唇にせまりおおいつく」された瞬間、作品は死ぬ。だから、作品について語ること——批評——は、作品に生を与えること、墓の中で誰に聞かれることなく発し続けている沈黙の言葉を聴取することである。

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