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ぼくなんて政治濃度薄いほうだけれども……

政治的な問題には想像力が問われている、ととりあえず仮定してみる。当たり前に享受していることがある瞬間、困難になってしまう——そうした事態について想像すること。そういう想像力を引き受けること。

身軽に話す批評の語りいいな。ただ美術についてあれこれ雑談している番組やりたいかも。
youtube.com/watch?v=kA3PzEZLh6

「中国に兵隊で行き、ひと一人傷つけもしなかったが、一度、銃殺刑の銃手を命ぜられた時があった。私は狙いを外して空を討ったが、しかし他の弾で受刑者は死んだ。私は今でも割り切れない気持でいる。」

鶴岡政男の手記を読むと、権力というものの恐ろしさを感じる。鶴岡のようなひとですら、無惨に権力に巻き込まれてしまう。空を打ったとしても人殺しの役目を誰かに押し付けたにすぎない。そうした「権力のメカニズム」(織田)からの逃れ得なさ、出口のなさこそが、権力の本当の恐ろしさだ。
織田は曺良奎もこの文脈から評価する。日本の(かりそめの)平和は「朝鮮戦争で消えた無数の死者と戦火に追われ追われた朝鮮人大衆の犠牲」の代償のうえに成り立っており、そうした朝鮮特需によってもたらされた高度経済成長の裏で抑圧された朝鮮の状況を主体化できている唯一の試みだ、と。

12月締め切りの原稿諦めた。今年度中に出したかったけれど、まあしかたかない。そういうときもあるということで。

そして、もうすぐ10月も終わろうとしている。今年は時が経つのがはやすぎだよ。体感的にはまだ6月ですよ、ぼくはあ。

無性に自然に触れたい。ハイキングとかキャンプとか焚き火とかしたい。ここ数ヵ月目の前にあるのはPCと本ばかり。疲れちゃったよ。

うー、レクチャーの前に告知用の概要文を書くのほんと苦手。

ん、インスタみたら、天重さんのお母さんらしきお人にフォローされとる。

ある方と話していて。絵画、彫刻はザ西洋美術でそこに非西洋の作家は参入しずらい。杉本博司や河原温などコンセプチュアルな形式や写真を用いた作家だけが、国際的に活躍できたのも、そうした理由による。そして、多文化主義以後は日本的なものを背負わされる。西洋中心主義はなかなか根深い。

宮下さんの投稿を読んで、先日読んだレオ・スタインバーグのテクスト("Contemporary Art and the Plight of its Public")を思い出した。彼は、現代美術との遭遇を「信仰」の問題としてとらえている。それはスタインバーグがユダヤ人だからだろうけど、とても重要だと思う。理解できない作品と出会うとき、ぼくらは「不安」に思い、場合によって「嫌悪」さえ感じるが、そのとき、理解できないものに対する信仰と、自身がいままでもっていた価値観を「犠牲」にする勇気が試されるのだ、とスタインバーグはいう。みずからの「不安」と対峙することは、だから、きわめて政治的かつ倫理的な態度でもある。

自己否定の裏には向上欲があり、生の欲望があるのであって、そうしたボジティヴなエネルギーに目を向けろというのが森田。

気分に左右されず、物事をエネルギーの配分量でコントロールすること。

アンドレ展の是非とは別にあれだけのコレクションをもった美術館が休館するというのは大変なことだと思う。

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河村記念美が休館……けっこうショックでかい。でも河村にかぎらず、今後は休館や閉館に追い込まれる美術館も増えてくるだろうし、遅かれ早かれか……いやー。

このドラマは弱さや傷を互いに分け合うことで対立を乗り越えようとしている。

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みんな弱さや傷を抱えている。それを丹念に描き、そしてそれぞれの生を肯定する。『虎に翼』のことだけど。

ある作家のひとと話していて、在外派遣でアメリカに行ったときアーティストたちが支え合っている姿が印象的だったとのこと。これはとても考えさせられる。
日本は(一般にそうは思われていないが)個人主義であり、他者に対して冷たい。これはおそらく、民主主義をみずから勝ち取ったわけではなく、敗戦によって民主主義の概念が外からインストールされた歴史と無関係ではないだろうと思う。
怪しい状況にはなっているが、アメリカには(ヨーロッパも)民主主義の蓄積があり、国民もそれを内面化している。だから、なんだかんで公共性が担保されている。

ようやっと原稿に着手できる気持ちになってきた。人生つらぽよ。

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