同じ日本語ネイティブ同士でも、言語能力自体が低い人物にとっては相手の言葉をあまり聞き取れないという話、非常によくわかる。
語彙が極端に少なく、繊細な表現の機微もわからず(ありていにいえば文法力に欠ける)、あたかも英語のわからない人がたまに聞き取れる単語があったり、類似するがまったく異なる単語があったりするのに似ている。理解できない音は脳の一次キャッシュにそう保存できないので長い会話(カナにして10文字以上。接続詞なんかもっての他)はそもそも拒絶反応が起きる。
理解できない話をする人間は、自分をバカにしているか、騙そうとしているか、あるいはその両方。だから、教師、役人、医者、銀行員、その他背広を着ているやつ、大学を出ているやつはすべて敵にしか見えない。
そういう人間が「敵」の中で暮らす孤独と苦痛は想像に難くないし、私はそういう人間層の中で唯一の大学教育を受けた人間として存在したこともあるので、孤独はよくわかる。
ただ、読み書きやそれなりの話をできる側の人間としては、唯一、医者や役人や銀行員と話を出来る人間としてうまくハマると、通訳や専門家として唯一無二の存在にはなれる。油断するといつルサンチマンや誤解に基づく被害妄想で殺されるかわからないリスクはあるが。逆は、まあしんどいだろう。
ふつうに考えると、面白い(ような気がする)ことに打って出て、既存の安定や既存の所得より明らかに不利なことに従事するのは、とんでもなく若くやり直しや親やその他の人間の支援が期待できるか、もともと資産を築いてたりどこでもやっていける技能を持っていたりするか、はたまた中年以上であってもいつ人生を畳んでもよいか、そういう立場でないとなかなかできまい。
妻と猫とがあり、住宅ローンがあり、大きな年の差婚の配偶者の人生はかなり長く、子が出来たら大学まで行かせる……などと思うと、無聊に耐え、停滞に耐え、長期的な衰退にさえ耐えて、既存の安定収入を得るのか最適解である。
まあ、今後の人生が収縮していくのが見える、中年期の危機を迎えているのだろう。妻には、どっか行ったりしないでね、と釘を刺されたりもするなど。
Сытый голодному не товарищ.