「過去にお前はこんな差別をしてる、だからお前の主張には正当性がない」的な詰め方って、端的に言って無敵なんですよね。差別をしたことがない者などいないのだから。こういうひろゆき的「論破」は、ようは「それを言ったらおしまいじゃん」でしかなく、その論法で実践可能な反差別はないと思う。それは「公正を求めること」とは相容れないありかたではないだろうか。
こういうのアンチフェミやトランスヘイターとやってること同じだなと気付かないのですかね
https://x.com/no_war_sosuke/status/1840024347865747585
劣等民族がトレンドにあがってて様子見たら発言主が青木理(話し相手は津田大介)で、「差別(だとか不正たとか)は知性がないからやらかすんだ」という考え方の行きつく先はやっぱり差別だよね、という確信を深めることとなった。
コーラ大好きとかいうやつ、加害性が高すぎるだろ
https://x.com/ilovecoke01/status/1834842349358530724
故意に差別を繰り返す者らと同じ土俵に乗ってはいけない、とはよく言われることだけど、その土俵はあくまでもかれらが「(差別をするために)設定した土俵」のことであって、我々すべてが問答無用で乗ることになる〈THE土俵〉みたいなもの(=我々はみな差別や加害をやらかす可能性があること)は否定できないし、ゆえに「我々反差別を表明する者らはそんな下劣な反知性的な土俵には乗っていないのだ」というような態度は取れないはず。
でもそう思いたくなる。自らの差別・加害可能性を認識し続けること、その可能性を減らすために学び続けることは、とても苦しいことだから。だからこそ、我々がすべきことは「誰のほうが正しいか=差別をしていないか/誰のほうが悪か=差別をしているか」というような競い合いではなく、我々みなが共通して持っている差別・加害の可能性をいかにして減らしていくかを考え実践する協働作業なのだと思う。当然そこには批判がある。でもそれは存在の否定でもないし、恒久的な悪認定でもない。批判は励ましであり、励ましは批判でもある。そのような環境を広げていかねばならないのではないか。