玉木を批判するのはいいのだが、「あれは尊厳死ではない」と、「尊厳死は悪くない」が前提になっているらしいことの方が怖い。「尊厳死と姥捨政策は似て非なるものだ」と玉木を批判している人もいたが、というよりむしろ、「尊厳死」は姥捨政策とは非なるもの、に見えて実は同じもの、というのが正しいと思う。
安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』岩波ブックレット
現代において安楽死や尊厳死の合法化を推進しようとする人々は、自分たちの主張や運動がナチスドイツの蛮行と並べられることに憤慨する。また、自分たちの主張を広く行き渡らせるために、ナチスのそれを連想させるような「安楽死(euthanasia)」という言葉自体を避けようという傾向も広く見られる。彼らの主張によれば、自分たちが求める安楽死とはあくまで本人の明確な意思に基づく自己決定としての死であって、優れた生と劣った生を峻別し後者を排除しようとする優生思想や、本人の意思に反して医師や国家権力によって「生きるに値しない」いうレッテルを貼られた人々を殺害していったナチスの「安楽死」などとは何の関係もない、ということになる。 しかし、本当にそうなのだろうか。
https://www.iwanami.co.jp/book/b458060.html
太田典礼が作った日本安楽死協会は、1983年に日本尊厳死協会と改名する。↓大谷いずみさんの典礼論
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現在のホスピス運動、緩和ケア、生死の教育の論理の中に、死生学・生命倫理学の中に、典礼の叙述にみられるような、ある意味では単純な、しかし剥き出しの差別性を拭い捨て、より洗練された言辞で、より巧みな様式で、「社会の負担」となる者への、「半人間」への排除の論理を、それらは隠蔽しているはずである。
http://www.arsvi.com/2000/0503oi.htm