ふねの沈没の話ばかりしすぎていて、ふねの死に美学を見出している人間みたいで、いや全く美を見出していないかと聞かれると逡巡するのだけど、現代現役艦船が不慮の事故で沈没したら本当に凹むだろうし、なんというか、刹那的な美はあるかもしれないが私はそこに美学は見出していない。いない。
だけどミレーの絵画「オフィーリア」のオフィーリアがあのあともし、肩凝ったわ~とか言いつつ普通に起き上がって、普段の生活に戻ってしまって普通に年を取って結婚して天寿を全うしてしまったらあそこまで「美しい」絵画とは呼ばれないんだろうな、という、屈折した感覚、としての美、は感じている。

単純に「物語として美しかったな」的な映画としての正しさと、戦争映画としての正しさと、制作陣が戦争をどう正しく理解したかと……みたいなものが自分の中でごちゃごちゃしていると思う どれも正しさがあった

ゲ謎は「正しかった」し、その「正しさ」こそが水木しげる作品の看板を担っていた意味だったし、戦後80年に至ることを感じさせて、私は嬉しかったのだけど。
同時に私は「正しかった」という言葉だけで形容するのでなく、もう少し言葉を手繰らねばと思った。また、他人が「正しかった」と言ったときに同意するもの/同意しかねるものに敏感でありたいなと。戦争の話なので、頻度高く解釈違いを起こして、もやもやしたまま雑な言葉に落としてしまうので……。

先日の「正しさ」、よく考えたら「正しさ」ってそもそも何だよ……?となる
正しい/正しくない、という二値に収まりきらない余白も想定せねば…fedibird.com/@samishira/111634

[参照]

感想『森崎和江コレクション 精神史への旅 1産土』 lucette.hateblo.jp/entry/2023/
>森崎の文章のいいところは、逆撫でるように言葉を繰り上げつつ、展翅のピンを打つように言葉を留めながら、ふと文脈を緩めて、主点が軸を見失ってしまうような、そんな言語的快感にあると思う。真綿で締められる知的な興奮というか。「こころのケア」(ひらがなに開かれた心情的な「こころ」という単語と、ケアという西洋医学用語の合わせ技)という単語に似たおかしさと親しみやすさにも似ている。
 この言葉合わせの唐突さの謎は、もしかしたら常々森崎が説いている「植民地主義と米」にあるのかもしれない。帝国が軍事行為と政治理念で行った侵略にくべられた炎と、民衆のかまどの火は表裏一体である、と彼女は見抜いていたのだ。無関係ようで、共犯関係にある二つの火。

何かの作品を「正しさ」で読み解くことは、何よりの大前提だと思う反面、鑑賞の時にそれ一強として引っ張られてしまうといろんなものを同時に見落とすのかもな~と思う。が、割と引っ張られる。でもそれは悪くないことだ。でもな、と逡巡が多い。その差の間を大切にしたい。
「作者が『正しさ』(倫理観や価値観)を持っていること」と、それによって「作品が矛盾なく『正しさ』で描き切れているか」はまったく別だと思う。それは自分が物語を描いていてわかる。物語は往々にして著者の手から離れて、着地点を見失い、放物線をえがいて大きく的から外れる。その手綱を引くのも創作の技量のうちなんだけども……。

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自分の言葉に説得力を帯びさせたい ひたすら鍛錬しかない

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