「始まりを語らない、あるいは忘れたふりをするのは侵略者や帝国主義者の常套手段」
日本(人)が琉球国を侵略/支配した「始まり」を語らず、沖縄戦の悲惨さや辺野古新基地建設に反対することだけに終始するのはまさに日本が帝国主義そのものだからだ。
現在県博では「首里城を救った男」とされる鎌倉芳太郎らの企画展が開催しており、それと連動する形でNHKでは「首里城・紅型 沖縄への愛 鎌倉芳太郎」が放送された。内容はもちろんここ最近問題視されている「日本人救世主」物語である。加害者であるヤマト民族がその加害性を忠実に表現することは不可能に近い。
映画『島守の塔』ではウチナーンチュを戦争に差し出した島田がなんと「命どぅ宝」と叫び県民を救おうとした英雄として描かれ、さらにそれがある教科書に取り上げられた。白人が好む内容に置き換える事を「ホワイトウォッシュ」というように、ここ沖縄では毎日あらゆる場面で日本人に批判を向けないための「ヤマトウォッシュ」が行われている。深刻な同化により殆どの琉球人はウォッシュされた情報を鵜呑みにし、戦争への道を再び辿る。 [参照]
「始まり」を隠す日本は悪。でも国がその態度を崩さないですむのは、多くの国民も同様に琉球民族差別という「始まり」から目を逸らしているからだ。
「始まり」のない作品で沖縄の人びとの悲しみを切り売りするだけなら、それはただのビジネス。解決する気はなく自己実現のために沖縄を消費する帝国主義を内面化したただの入植者。
求めているのは「救世主」じゃないんだよ。