国民民主党や今回の兵庫県知事戦の流れを既得権益や「既存エスタブリッシュメント」への反発という文脈から解釈する流れが多いのですが、背景にあるのは、社会構造の劇的な変化(グローバリズムの進展による格差化、産業構造の変化、移民など)による相対的剥奪感に加えて、パンデミック以降のインフレなどによる生活苦が乗っかった形で、既存の政治勢力への反発は、あくまで背景要因のぶつけ先がそこになっているだけ、と考える方が妥当だと思います。
一次要因の社会構造の変化に対して、対策を打ち出せない既存統治システムへの怒りが噴出していることが原因とするならば、対策として、言論によって包摂するのはほぼ意味がなく、一次要因への対策になります。
しかし、これは大きな社会構造の変化にともなうものですから、実効的な対策をとるのは非常に難しく、ほぼ誰にとっても無理ゲーである、とも思います。
要するに、当座、打つ手はない、と思うのですが、ここで問題を「言論」にあるとみなして、左派リベラルがー、と言い出すのは、言論好きの人の趣味の領域でしかなく、現実にはなんら関係がないと思います。
リベラル逆張り系の論者の方達が、社会秩序を壊す存在をも包摂せよ、とよくいうのですが、こうした指摘は、だいたいの場合、現実を踏まえておらず、逆張りでリベラルを批判することが目的化しているのではないか、と疑っています。
(「リベラル」と違って「包摂できる自分」アピールのため)
左派の硬直制は確かに存在しますが、それは、逆張りの方達が批判する部分とは、批判されるべきポイントが異なっている、と私は考えています。
世の中のほとんどの人たちが、異常でもなく悪辣でもなく、ごく普通の善良な真面目な人々であることはまちがいないですが、そうした「普通の人々」の暴走こそがもっとも恐ろしく、それは民主主義に必ずついてまわるものである、ということはもう指摘されていることでしょう。
集団化した人間の暴走の恐ろしさを知らないのだろうと思います。
「包摂」するといって、たんに自分が取り込まれているだけ、という事例もとても多く、これもポピュリズムの跋扈する時代だなと思います。