こういう時、「新聞は〇〇せよ」というような意見が多くみられるのですが、そもそも情報源が完全に分離しているので、新聞がなにを書こうとも読まない層は読まないです。
たとえば、これまで、数々の朝日の記事の炎上がTwitter発で起きましたが、その大部分が、「見出しのみ」を読んでの炎上であり、本文を読んでいる人は、極めて稀でした。
これは、朝日の炎上記事のアクセス数へは炎上してもあまり影響が出ないということから裏付けられると思います。
つまり、もう最初からメディアを敵視して炎上させることが自己目的化しており、機会があったら便乗して燃やすというループができているだけで、ソーシャルメディア上の炎上は、実質的な批判にはなっていないですし、それを気にして内容を変えたとしても、もともと読まれてもいないのだからなんら変化はない、という結果になると思います。
リベラル逆張り系の論者の方達が、社会秩序を壊す存在をも包摂せよ、とよくいうのですが、こうした指摘は、だいたいの場合、現実を踏まえておらず、逆張りでリベラルを批判することが目的化しているのではないか、と疑っています。
(「リベラル」と違って「包摂できる自分」アピールのため)
左派の硬直制は確かに存在しますが、それは、逆張りの方達が批判する部分とは、批判されるべきポイントが異なっている、と私は考えています。
世の中のほとんどの人たちが、異常でもなく悪辣でもなく、ごく普通の善良な真面目な人々であることはまちがいないですが、そうした「普通の人々」の暴走こそがもっとも恐ろしく、それは民主主義に必ずついてまわるものである、ということはもう指摘されていることでしょう。
集団化した人間の暴走の恐ろしさを知らないのだろうと思います。
「包摂」するといって、たんに自分が取り込まれているだけ、という事例もとても多く、これもポピュリズムの跋扈する時代だなと思います。