映画『金の国 水の国』感想、座談会で心がすっと冷めたので、厳しめなところから
映像芸術としての映画化いうより、少女漫画の映画化、という方が厳密にいえば正しい脚本・監督で、原作に忠実なタイミングでモノローグが入るんですよね。ただ映像は漫画よりもさらに情報が増えるので、モノローグはもうちょっと削れたんじゃないかなあ、というのがずっとあった。シーンでも丁寧に、あるいは比喩として心境説明を重ねていってる演出だったので、結果として余分かなあ、と感じてしまい。
帰ってきてすぐ原作読み返して、こっちは引っかからずにすいすいと行くので、漫画としてテンポを作るモノローグと、アニメとしてテンポの良いモノローグって違うなあというのが率直なところです。
少女漫画としての「想像させる心境」と「説明する心境」の前者のよさはやはり原作の方が豊富だなあと思いました。
本当に好みの問題だと思うんだけどね。
あと、最後の展開で「いつサーナが合流するか」は明確に変えているんだけど。これは少女漫画の命題であろう「ボーイミーツガール」が強調されたものになっていて、私は原作の展開のほうが好きだけどアニメの方が好きな人もいるだろうし、好み分かれる改変だなあと思った
ネタバレ感想
原作にあった神の要素を抜いて、人と国の愚かさを強調した冒頭にしたのは個人的に好み。そして結果として現実で起こっていることの愚かさと悲劇が際立ってしまって、なぜ映画のように話し合えないのか、という悲しみもある(政治を極力単純化している物語だから可能な和平なんだけど)。
恋愛ものとしてみると、ナヤンバラルは明確に好意を持つ→恋に落ちるの描写がある一方で、サーラは「出会いから生まれた信頼と好意に恋という名前が付く」という流れで、その瞬間がないグラデーションなのがよい、どちらから見ても少女漫画~っていう醍醐味がある。
物語としては知ることと賢さの話で、中心人物であるサーラもナヤンバラルもサラディーンもレオポルディーネもそれぞれが善人で、賢く、考え、知り、尊重しあうことができる。そして同時に偏見や弱さ、狡さもある。だからこそ各自がそれを乗り越える展開になる原作の良さを、映画はさらっと描いてたなあ。一番変わっていたのがサラディーンで、「お飾りだから」という自嘲を取り払ったら生き残ったシャディク(水星の魔女)になってた。私の好みとしては、あの「所詮遊牧民出の旅芸人だから」っていうところは残してほしかったなあ。
このキャラは読解するとどうだった、というのは人と話すことで気づきや深まり、広がりがあるかなあ。こうやって語っていくと、確かに人の話を聞きたくなる作品。