日曜から今週は映画週間にしたので、今日は『金の国 水の国』見に行きます

で、『金の国 水の国』を見てきたわけですが、ネタバレでないと判断して書くと、エンドロールが出て「おしまい」って出たあとの、主演二人と監督の座談会って全上映に付いてきたのかな。
私は「おしまい」と銘打ったらおしまいであるべきと思うのと、リピーターほしいんだろうが物語の余韻もなにもぶったぎるタイミングでそれが投入されたので、かなり醒めてしまった…文字通りの蛇足…余分…

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映画『金の国 水の国』感想、座談会で心がすっと冷めたので、厳しめなところから 

映像芸術としての映画化いうより、少女漫画の映画化、という方が厳密にいえば正しい脚本・監督で、原作に忠実なタイミングでモノローグが入るんですよね。ただ映像は漫画よりもさらに情報が増えるので、モノローグはもうちょっと削れたんじゃないかなあ、というのがずっとあった。シーンでも丁寧に、あるいは比喩として心境説明を重ねていってる演出だったので、結果として余分かなあ、と感じてしまい。
帰ってきてすぐ原作読み返して、こっちは引っかからずにすいすいと行くので、漫画としてテンポを作るモノローグと、アニメとしてテンポの良いモノローグって違うなあというのが率直なところです。
少女漫画としての「想像させる心境」と「説明する心境」の前者のよさはやはり原作の方が豊富だなあと思いました。
本当に好みの問題だと思うんだけどね。

あと、最後の展開で「いつサーナが合流するか」は明確に変えているんだけど。これは少女漫画の命題であろう「ボーイミーツガール」が強調されたものになっていて、私は原作の展開のほうが好きだけどアニメの方が好きな人もいるだろうし、好み分かれる改変だなあと思った

とにかく見事なまでに少女漫画の映画、膨らませたところ、時間をかけたところ、焦点を当てたところによって原作以上に異国風ファンタジーではなく異国風の少女漫画に仕立てられてると思った。
映画がなぜ時間の芸術か、というのを思い出したりした。本は読む人の心境で時間が延び縮みするけど、映画はコンマまで操られているもので、時間が焦点なんだよね。コマのテンポという時間、小さな情報を持つ一瞬が監督によって自在に拡大と縮小するのが映画であり映像化なので、その醍醐味はあった。
時間が違うということは語りが違うということで、語り直された話として映画化は成功なのだと思う

次にネタバレでないこねた。
公共事業大好きな建築家のアジーズが記憶以上に安藤忠雄で、出てくるたびに「安藤忠雄…」となっていて、帰ってきて原作見たらそっちも見事に安藤忠雄だったので、なぜ初読でこの安藤忠雄ネタに気付かなかった私…。
あと『金の国 水の国』は日テレ映画だからか、最後のエンドクレジットに協賛で系列局の名前が出るところがあって、そのときに「24時間テレビ感」となっていた。
地上波でやるときは、出来ればEテレ土曜日枠で一気に放送してほしかったけど、放送は金曜ロードショー枠です。異国情緒があるからCMで区切ってほしくはないけど仕方ないね…資本主義社会…

ネタバレ感想 

原作にあった神の要素を抜いて、人と国の愚かさを強調した冒頭にしたのは個人的に好み。そして結果として現実で起こっていることの愚かさと悲劇が際立ってしまって、なぜ映画のように話し合えないのか、という悲しみもある(政治を極力単純化している物語だから可能な和平なんだけど)。
恋愛ものとしてみると、ナヤンバラルは明確に好意を持つ→恋に落ちるの描写がある一方で、サーラは「出会いから生まれた信頼と好意に恋という名前が付く」という流れで、その瞬間がないグラデーションなのがよい、どちらから見ても少女漫画~っていう醍醐味がある。
物語としては知ることと賢さの話で、中心人物であるサーラもナヤンバラルもサラディーンもレオポルディーネもそれぞれが善人で、賢く、考え、知り、尊重しあうことができる。そして同時に偏見や弱さ、狡さもある。だからこそ各自がそれを乗り越える展開になる原作の良さを、映画はさらっと描いてたなあ。一番変わっていたのがサラディーンで、「お飾りだから」という自嘲を取り払ったら生き残ったシャディク(水星の魔女)になってた。私の好みとしては、あの「所詮遊牧民出の旅芸人だから」っていうところは残してほしかったなあ。

ネタバレ感想続き 

B国ことバイカリの荒廃は原作よりも控えめに描かれている一方、A国ことアルハミルの水の枯渇が何度も強調されるのは舞台がアルハミルだから、という以上に、お嬢様との約束のために水を引きたい、というナヤンバラルの動機の強化になってる気がする。そんな感じで情感を盛り込んで観客を感動させよう、という意図が強すぎるきらいがあるので王様の孤独も原作以上に強調されてる。原作のほうだと有害な男性性というか「偉大な男性の君主」という呪いがかかっている、ほうが強調されてると読んだので、あの孤独の強調は情感に振ったなあと。
ただこれらは本当に好き嫌いの問題なので、私がそういうのに乗り切れないだけでその辺が膨らんだからこそますます話が好きになった人もいると思うのだな。
岩本先生の原作って情感と情報が不思議なバランスで成り立ってる少女漫画だと思うのだけど、映画はそのバランスを思いきり情感に振っている、という話。

このキャラは読解するとどうだった、というのは人と話すことで気づきや深まり、広がりがあるかなあ。こうやって語っていくと、確かに人の話を聞きたくなる作品。

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