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浪曲うさぎ さんがブースト

町山氏、そもそも以前言ってたことと今言ってることが全然違うっぽいの、ほんまにニューシネマは反家父長制やと確信するようになってたんやろうか、北村さんに有利なこと言うのが嫌やからそういうこと言い出したんちゃうの〜??みたいな目で見てしまう

ところで自分は昔は町山氏のことはファンってほどではなかったがそこそこ好きでネットラジオとかをよく聞いてたんだけど(『ハロルドとモード』もそれで知ったと思う)、「ちょっとこの人ダメだな」って距離を置くようになったのはラジオかなんかで『ブルーバレンタイン』って映画のことを語っていたとき、そこで町山氏の主張していることが思いっきり「ザ・資本主義下での家父長制」って感じだったからだな。男は仕事してたくさん稼いで妻に認められねばならない、って感じのことを言ってた(町山氏や町山ファンは本質はそうじゃないみたいな言い訳をするかもしれないけど)。

それに加えて、町山氏が「マニアックな趣味の女がいたらそれは男の影響」みたいなこと言ってるのを聞いたときにもドン引きしてこいつダメだと思ったよ。

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町山智浩氏が言ってるニューシネマの特徴が反家父長制であるっていうの、そうなのかあ?って思う。

たしかにニューシネマの主人公って家父長制的な価値観を体現するって感じじゃないアウトローや流れ者だけど、アンチ家父長制って感じでもないし、それを言うならジョン・ウェインの西部劇だってそういう主人公だったりするし、単に青年が一度家を出て冒険するっていう過程にあるだけにも見える(物語上ではニューシネマの主人公は若くして死にがちだが)。さえぼう氏も、反家父長制がアメリカン・ニューシネマの特徴だとは思ってなくて父と息子の反目はアメリカ演劇でよくあるテーマだと言っている。

最近、羽生が負けててつまらないから、渡辺明に藤井先生倒してもらって刺激が欲しい。

野田佳彦ってやたらと政治部記者からの人気が高かったから、立憲の代表になったら新聞の立憲に対するいじわる皮肉記事が体感ではギリギリ感じられないレベルで少なくなりそう。それが唯一のいいところかも。いいのかどうかもわからんか。知らんけど。

いわゆるアメリカンニューシネマと呼ばれる映画の中で自分が見たものいちばんヘンテコだなと思ったのが『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』っていう映画なんだけど、見たのが随分前であらすじでも確認してみようかと思って検索かけたら黒柳徹子主演のハロルドとモード舞台版が出てきてびっくりした。来月から公演開始らしい。

浪曲うさぎ さんがブースト

 今週のTRAIN TV、チョコプレネットのジェスチャークイズの3問目、答えが「コンプライアンス」なんだけど、これはあれ?TRAIN TVがつまらないのはコンプラのせいだというエクスキューズ?甘ったれるな!!!

浪曲うさぎ さんがブースト

 そろそろTRAIN TVに言及できることがなくなってきた。このアカウントの存在意義が失われつつある。

近所のスーパーのお米コーナー、お米はまったくない状態でお米の棚の上で「ごはんですよ」の陳列だけが目立っていたので思わず「『ごはんですよ』はごはんじゃないですよ」という箴言が頭をよぎった。

小説『ガニメデの優しい巨人』のネタバレ含む 

『星を継ぐもの』の続編で、ガニメディアン(巨人)と地球人(阪神)のファーストコンタクトものなんだが、そこに出てくる巨人の性質、文化、暮らしぶりがすごくマルクス主義的。

「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」を地で行く形で生活し、労働をするというより個人の喜びのために進んで社会に貢献しているだけ。きっつい労働により疎外されたものはいないし、社会に溶け込めずに問題を起こす人物も手厚い福祉を受けていそう。

巨人は進化の過程で他の生物や同族間での生殺与奪を経ずに(人類を科学技術で遥かに凌ぐ)知的生物まで進化しているので競争心がなく、そのため資本主義経済みたいなものも存在しないので、資本主義→革命→共産主義っていう発展段階説みたいな進歩は経ないでそういう状態になっているので、その点ではマルクス主義的ではないとも言えるのだが。

阪神はギャグです。

私は人の性格が相貌に出るみたいな説に世間一般より多分に懐疑的、というか否定論者で(ルッキズムにもつながるしね)、麻生太郎や橋下徹みたいなのが悪人の顔に見えるのはただ単にやつらが悪いというそれだけの話だとしか思ってない。ただのバイアスで悪人の顔の類型みたいなのが存在していると思い込んでるだけだと。私は石丸某を見た時、山添拓と同じ傾向の顔だなと思いましたが、当然のこととして山添と石丸が骨相学まがいの観点から同一の性質をもっている政治家とは夢にも思いません。

自転車のタイヤ&チューブ交換して空気入れようとしたらまったく入らなかった。たぶんタイヤはめてるときにチューブを傷つけちゃったんだろうな。ひさしぶりに交換したからすっごい時間かかったのに・・・

『ダーティ・ハリー』はあきらかに権力側(警察)の暴走としか見れないので、反体制思想をもつ人は違和感を感じずにはいられないだろう。その点へのカウンターなのか続編の『ダーティ・ハリー2』だと暴走する警官を逆に(バッジを捨てて警官をやめたはずの)イーストウッドがこらしめる話になってる。
たしか2ってチミノとかジョン・ミリアスが絡んでたよね。

浪曲うさぎ さんがブースト

アメリカン・ニュー・シネマはほとんど通ってなイノで具体的なことは言えないけど、ヘイズ・コードによる規制の時代を抜けてそれまでより自由にいろんな表現が行われるようになりましたというような事は曖昧な知識として持っているので、そんな言うほど性や暴力の表現はなかったとか今と比べたら大した事ないみたいな話されても全然乗れないな。
ダーティ・ハリーが好きなら好きでそのことを熱く語った方が面白いと思うんだけど、それはどうでもいいってなってるところがますますわからない。
北村さんの批評は面白いし勉強になるので読むけど、同時に自分が映画のこういうところが好きなんだよなっていう側面に北村さんが全然興味がなさそうなのもわかっている。『ダーティ・ハリー』評のそっけなさもそういうところかなと理解している。

ニュー・シネマ時代になってむしろ白人男性中心的な傾向が強まった評価になっているというのが一番ほおっってなった部分かな。やっぱり50年代のハリウッド映画って面白いよねと我田引水的感想を持った。

上の3つの映画の暴力描写をないがしろにするのはさすがにナンセンスの極みだし、暴力やセックス以外の魅力やテーマが映画に存在したとしてもそれは「暴力や性の描写が特徴」という命題を否定することにはならない。「"ニュー"シネマ」って言うぐらいだからヘイズ・コードとかのからみで時系列的な新規性として暴力描写や性描写を特徴としているのは簡単に読み取れそうなのに、そういうのすらわからず「のちの『ダイ・ハード』の暴力描写の方が露骨」とか素っ頓狂すぎることを言っている。

エルビス・プレスリーは出てきたときに表現が性的に過激だったと言われていたんだけど、「現代のアーティストの表現の方がエルビスに比べて圧倒的に過激」って言って「エルビスの特徴は過激なセックスアピールではない(他の魅力もある、バラードも歌ってるし)」とか言い出すようなもんでしょ。

一時が万事こういう調子でにわか氏の脳内のルールや感想でしかないようなものを飛躍した論理で一般化しようとしてるんだよ。そしてその飛躍を穴埋めするかのように論敵に対する中傷や嘲りを入れるんだ。こういうタイプの人、たまにいるし、一番キライなんだ。キライ過ぎて無駄な長文を書いてしまった。

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にわか氏に対する反論はさえぼう氏が簡潔に行っていて、それは別にさえぼう氏じゃなくても多少の入門的知識さえあれば誰でもできるレベルもの。

だって「ニューシネマは暴力や性の描写が特徴」っていう一般論を否定しようとして持ち出してくるロジックが、『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『暴力脱獄』みたいなのを持ち出して暴力が描かれているという特徴を否定する、ないしは暴力以外の魅力があるって主張する、みたいなことなんだよ。

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浪曲うさぎ さんがブースト

ニューシネマについてはわたし全然知らんけどさ
あんな映画やこんな映画もある、ニューシネマの定義に入るか入らないかについて議論の余地のある映画がある、だから一般論としてのちゃんとしたニューシネマって定義なんかない、みたいに言ってはるのがもう、批評以前の話という気がする

どんな用語でも、定義に当てはまるかどうか議論の余地のあるものなんて山ほど存在するよ。だから論文ならまず、冒頭で「ここでは〜をAという用語の定義とする」と明示した上で批評に入るわけでしょ。
議論の余地のあるものがいっぱいあるイコール定義がないとか間違ってるとかじゃないんよ。それはもう、学者さんなら誰でもわかってる、踏まえておくべき当たり前の前提なんよ
それがわかってない時点で議論の土俵に上がれてないんよ

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