「映画にわか」なる人のことは知らなかったが、なんか興味本位でnoteを読んでしまった。なんというか、知識不足なのも見て取れるけどそれ以前の問題として持論のロジックの組み立てが破綻してて、情念だけで突っ走ってなにもかも飛躍しまくりに見える。こういうの、雑誌に記事書いてるようなライターにもいるけどね。
『卒業』に露骨な性描写がないと言うが、『愛のコリーダ』レベルまで行かないとセックス表現と言っちゃいかんのか(だいたいミセス・ロビンソンとの情事やストリップバーのシーンとか十分「露骨」だと思うのだが)?
『暴力脱獄』の主人公は一切暴力的抵抗をしないと言っているが、暴力に対する非暴力的抵抗を描いたものなら、それは暴力がテーマと言って何の差しつかえもないだろう。あとふつうにニューマンはジョージ・ケネディ殴ってたし。
ずっとこんな調子。
『暴力脱獄』について。「邦題とは逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語」と書いているが、確かに主人公ルークの人物造形にはキリストが重ねられているが、この書き方だと非暴力を貫いた聖人のようじゃないか。この主人公が捕まったきっかけ、酔ってパーキングメーター壊すこと自体が暴力だし、刑務所にぶち込まれた後何度も何度も脱獄しては連れ戻されるのは刑務所内に蔓延する暴力に対する抵抗だが脱獄という方法もまた暴力的だと思うんだけど。暴力の解釈が違うんだろうか。あとゆで卵一気食い大会優勝して倒れる(倒れた姿が十字架にかけられたキリスト像を模している)とか、誰かに対する加害ではないけれど自分を痛めつける姿を見せつけて刑務所内での地位を高めていくところがあり、また何度目かの脱獄の後看守に土下座しているところを見とがめられ、今度は刑務所内での地位が下がって迫害の対象になるところなんか、この映画が暴力を描いていないとは絶対に言えない。「ニューシネマは暴力やセックスを主眼とした映画ばかりではない」という結論ありきで映画のテーマまで捻じ曲げないでほしい。『暴力脱獄』という邦題に関してはどうなんだと私も思うけれども。
にわかの人、映画によっては解釈が面白いなと思って時々読んでたが、今回のアメリカン・ニューシネマについては「俺の思うニューシネマ」についてしか語ってないしさえぼう先生が映画史の資料を紐解きながらきちんと反論しているのに対してブルスコで「自分は映画を見て言ってるのに本読んで反論されても」的なこと言っててとにかく自分の解釈中心なので全然だめだな、フェミニズムやクイア表象については物凄く偏りがあってずーっと解像度が低いんだが全然認めない。
実際に見た映画について語ることのが実感がこもってて映画史や批評の歴史の資料を提示するより上なんだって考える人いるだろうな~と思ってたら本人がそうだったのであーあな感じ。昔からさえぼう先生に対する敵意が異常で映画の解釈が気に入らないからってここまで書くかねって思ってたけど。
で、私もそれほどニューシネマを見ているわけではないしさえぼう先生の反論を読んで「勉強になるなあ」と思っているような人間ですが、にわかの人が取り上げた作品についての解釈があまりに私と違うので、それを書いておこうと思ったんだった。
スポーツ産業と、競技スポーツと、楽しみやヘルスケアとしての運動を出来るだけ別けて考える必要があると思っている。
例えばトランス女性のスポーツ参加で話題に上るのはいつも国際大会やプロの話だけど、米国ではそのような論調を利用して学生スポーツに大きな影響が出ている。子どもたちが学校や地域のクラブで運動を楽しんだり、競技スポーツを通して交流するような道を絶たれている現実がある。
あるいはオリンピックに異常なまでの予算をかけ社会に負担を強いる一方で、障害者などのマイノリティや貧困層が運動をするための障壁は物理的にも社会的にも以前として大きい。
本来、権利として保証されるべきは健康維持や余暇としての運動や競技スポーツで、スポーツ産業はそれこそ"自己責任"でやるべき範疇のものだが、現実の支援策は優先順位が逆転している。
そして競技スポーツ=スポーツ産業の対象となるような階層の競技スポーツだと思い込まされているために議論が不足しているように思う。
スポーツに興味より憎しみを覚え甲子園なんて児童虐待だと思っている私が完全にこれだったので怖い。
https://mainichi.jp/articles/20240819/k00/00m/050/252000c
今日の第4試合の解説をしてた人、無謀な盗塁死についてかなり辛口に言ったり、点差が開いてるときの盗塁や犠打に対しても否定的で(語り口は柔和だけど)、昔セイバーメトリクス好きだった人間からするとかなり好感の持てる解説だった。
昔、仕事で大手 SIer の SE と付き合ったことがあるけれど、彼らは SE という言葉本来の意味(Software Engineer)での技術者ではなく、単なる事務屋さん(書類作成者)だった。ソフトウェアについても、対象となる業務についても、薄っぺらい知識しか持っていなくて、それでもプロジェクトを管理すると言うので何をするのかと見ていると、上位の営業レベルで決定された仕様や納期を大枠として、それらしく見える機能一覧表や線表(予定表)を作って下請けに提示して、さあ、これでやって貰おうという訳だった。Excel がそこそこ使えて、大企業の看板を背景に偉そうに指図して恥じない根性があれば何とかなるという、非常につまらない仕事であると思った。
ソフトウェアについても対象となる業務の知識についても下請け会社のエンジニアの方が圧倒的に優秀だった。そういう人たちが実質的に取り仕切ることによってプロジェクトが回っていた。
20年以上も前の話だが、今も基本的に同じだろう。いや、マイナンバーのあれとかを見ていると、もっと悪くなっているような感じだ。
あらまあ。晩年はDVの話とかあったけど。古い映画はたくさんみた。『太陽がいっぱい』が一番好き。
アラン・ドロン、88歳で生涯を閉じる。伝記と写真で振り返る恋と友情、数々の名シーン(フィガロジャポン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/43453642c7a6301b7427f0b7c9d4f46fe4fd1e00?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20240818&ctg=ent&bt=tw_up
A.ドロン死去(88歳)。
フランスの俳優にしては珍しい「イケメン」だった。
同世代のもう一人のスター、J=P.ベルモンドが「勝手にしやがれ」などの役柄とは異なり、ブルジョア出身の「インテリ」だったのに対し、アラン・ドロンは、家庭環境が安定せず、海軍兵士としてインドシナ戦争に従軍もした。
実際、アランは「インテリ」とは言えず、マフィアとの関係も「公然の秘密」だったとされるが、若い頃は「繊細で知的な青年」を演じることが多かった。
例えば、ゲイであったL.ビスコンティに愛され、『若者のすべて』や『山猫』などに出演できたことは、ドロンにとって幸運なキャリアだった。またJ=P.メルヴィルの映画にも複数出演、これらはすべて歴史に残るだろう。
他方ヌーヴェル・ヴァーグからは目の敵にされたルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』では「現代のジュリアン・ソレル」を演じ、大衆的にも一挙に大スターになる。
実際これは、今見てもアラン・ドロンの俳優としての潜在力を引き出したよくできた映画だと思う。
この美的センスは日本の「太陽族」を演じた代表とも言える石原裕次郎とは全くレベルが違う。
その上、ゴダールの「ヌーヴェル・バーグ」にも出演しているのだから、まさに時代に恵まれたと言えるだろう。
赤城の山も今夜を限り
生まれ故郷の国定の村や
可愛い子分の手めえ達とも
別れ別れになる首途だ
And we're living here in Allentown