葉室麟の『古都再見』を読んでいる
#読書
NHKオンデマンドの高校生百人一首大会のドキュメント面白い。実力が拮抗してると双方ほぼ同時に取るということがあって、初めから審判が入ってくれる訳ではなく話し合い(通称揉め)で勝敗を決めるらしいんだけど、そのときあえて引く(譲る)ことで相手の焦りを誘うとか、心理戦の判断がすごい。すでに自分の取り札のほうが多くて相手が焦ってるからより効いたというのも、その場で相手の様子を瞬時に見抜いて判断できているというか。
田辺先生は、書き物や講演の仕事の量を緩めず、介護は人件費出してめいっぱい人手を借りて、でも任せきりではなく自分が采配し、限られた時間のなかでなるべく夫や母との時間を長く取るようにするというやり方を貫きながら、自分がこうと決めてやっているのだと割り切っている。愛だの献身だのではなく、あくまで自分がこうしたいからというさっぱりした書き方をしている。
そうはいってもたぶん、たとえばこの本がメディアで取り上げられたら、夫婦愛などと言われそうだと勝手に想像してしまう。けど、ここまでやるのは、やはり愛というものなのでないか、何かよくわからないけど相手が生きているかぎり、こうしてあげるべきだと思って大変でも頑張れるのは、愛というものの力なのではないかとも思ってしまう。自分でも何言ってるのかよくわからない。一周回って当たり前のことを言ってるような。
介護。
私は体を鍛えたことがないので、重いものをかかえることができず、そうする必要がある場面で役に立たず心苦しい。単純な筋力の問題だけではなく、生きてきた中でそういったことから逃げていた、免れていたという事実を突きつけられている気になる。そしてできないからという理由でこれからも免れようとしている自分を自覚する。
だから、年をとった夫婦の老老介護とか聞くと恐ろしくてならない。What!?となる。今でさえできないことができるのか?と。
田辺聖子さんも自分で介護するだけでなく人件費を払って複数の人に手伝いにきてもらっているのだが、その多くも女性である。スポーツやってたとかでもなく、小柄な人もいるだろう。でもたぶん、そういうことから逃げずに働いて生きてきて、だから何とかして人の身体を動かしたり支えたりするし、それで腰を痛めたら笑って湿布を貼るのだろう。
介護の具体的なエピソードを読むと、こんなことを考えてしまう。
田辺聖子さんの残花亭日暦、面白いしするする読めてしまいそうだけど、ちょっとした描写から見えてくる作者の性格とか、介護の現実や当時の社会についていろいろ考えてしまい、そちらに何だか疲れるのでいったんお休みしている。