世界的な政治への不信の高まりの中で揺らぐ代表制民主主義はどうなる? | 駒大PLUS https://www.komazawa-u.ac.jp/plus/topics/report/5576.html
有意義な指摘だし流されるのはもったいないので、僕のほうからもちょっと付け加えておきたいと思います。廃墟に関してはアフターパンクの流れもありますよね。80年代ならアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンからプッシー・ガロアに連なる系譜。工業化を無意味化してみせるようなインダストリアル・ジャンク的な感性はその後のインターネット文化の一つの指標になっていると思います。よかれあしかれ。日本ではもちろん『AKIRA』があり、塚本晋也がいて、その後に軍艦島のリバイバルや「工場萌え」等が続いたわけですが、それらを資本主義の果ての風景として受容したのがポスト渋谷系から現在の浅野いにお的な「エモ」に至るサブカルチャーの流れだったと総括することはもちろん誇張ではあれど、あながち間違いとも言い切れないんじゃないかなと。
Before getting excited about new technologies, the first thing we should do is consider regulation, including legal measures. By differentiating what can and cannot be done through laws, we can prevent monopolies and avoid the expected confusion. This should be common sense. For instance, copyright laws are likely the first thing that comes to mind, but we cannot simply ignore discussions on whether to change the law to suit artificial intelligence, or to change artificial intelligence to suit the law. It's absurd not to discuss these matters.
I can't speculate on individual motives, but from a macro perspective, it's just a manifestation of the power struggle among factions of intellectuals for industry dominance. On social networks, due to their nature, many viewers are inevitably drawn in, but the nature of supporters is bound to be biased, and the props obtained will hardly affect sales or social reputation. First of all, wake up to this fact.
Although I think there's really not much that can be done, since it has already caught my attention, I'll respond. In general, whether it's criticism of the government or criticism of individuals, the first thing to consider is how to make your voice heard by the other party. The passive attitude of throwing your voice into the void and waiting for the other party to eventually pick it up is probably a drawback of the internet age.
「「1980年6月 東京」と洋数字で冒頭に記した「小説に付けられた274個の注は、『なんとなく』と『クリスタル』とのあいだに、『、』を入れたのと同じ作者の批評精神のあらわれで、小説の世界を世代的、地域的サブ・カルチュアの域に堕せしめないための工夫である」江藤淳
「待ち合わせたレストランはもう潰れてなかった」『東京は夜の七時』
「この退屈な国には もうお金がないわ
あのねどうして今は景気が悪いの?
資本主義はきっと 恋愛よりも難しいのね」『ジャンニ・ヴェルサーチ暗殺』
「〝愛〟は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして〝資本主義〟も。」『pink あとがき』
「愛を纏うすべてが今
愛に惑うまでの12話
世界を囲うすべてに似た
サヨナラと風の12話
Otogi Nation Otogi Nation
Otogi Nation Otogi Nation」
『OTOGI NATION』
「今の東京には太陽と月以外に、私が過去と交るよすがは無い。日月では余りに手掛かりが無さすぎる。或る意味ではさういふ故郷喪失者こそ最も豊かに故郷を所有してゐるのではないか」福田恆存
『FM STATION 8090 ~CITYPOP & J-POP~』、内容的にはとても良かったんだけど、渋谷系からアイロニーが抜け落ちて「日本sugee」に転化していく流れを再現しているようで、ちょっと辛いものがありました。ヴェイパーウェイヴ~シティ・ポップについては、相応のクオリティを持ったものをちゃんと評価するための枠組みや文脈を批評家が作れなかったことが何よりも省みられるべきだと思います。しかしノスタルジーと感傷に支えられたこのムーブメントは言ってみれば『なんとなく、クリスタル』が世界標準になったってことの表れでもあるんで、ナショナリスティックな視点でもってそれを喜ぶのは、「誤解」と言っていいんじゃないでしょうか。それこそ江藤淳が生きていたら激怒するところです。なぜなら江藤によれば資本主義によってナショナリスティックな意味で代替不可能なものがなくなっちゃったっていうのが『なん、クリ』の要旨だからです。同様にヴェイパーウェイヴは「失われた未来」に捧げられた音楽であり、ノスタルジーが誘うのはわれわれにとっては馴染み深い資本主義の廃墟です。それ=幸せな過去の記憶と戯れること=失われた未来を惜しむことを感傷的に受け止めることこそが本義であり、その性質からアイロニーぬきで受け止めることは難しいと思います。
戦略としての「日本のサカモト」について語る三田格氏。副読本に『「世間」とは何か』を挙げたい。
https://www.ele-king.net/review/album/009037/index-4.php
追悼ということで言うとout of noiseのhibariとasyncのLIFE, LIFEがいいんじゃないかなと思う。音楽への謝辞は音楽で返すのが筋というものだけれど、個人的には言葉も捨てたもんじゃないよという思いもあるので、hibariのモチーフになった夏目漱石の草枕から引用する。
忽(たちま)ち足の下で雲雀(ひばり)の聲(こえ)がしだした。どこで鳴いているか陰も形も見えぬ。
只聲だけが明らかに聞える。せつせと忙(せわ)しく、絶え間なく鳴いている。
方幾里(ほういくり)の空気が一面に蚤(のみ)に刺されて居たたまれない様な気がする。
あの鳥の鳴く音(ね)には瞬時の余裕もない。
長閑(のどか)な春の日を鳴く盡(つ)くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなくては気が済まんとみえる。
その上どこ迄も登っていく、いつまでも登っていく。
雲雀は屹度(きっと)雲の中で死ぬに相違ない。
登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂ふているうちに形は消えてなくなって、只聲丈が空の裡(うち)に残るのかも知れない。
グレーの画像が次々にアップロードされて、Twitterでトレンドになったりしてるんじゃないかと思って覗いてみたら、やってんの細野さんだけだった。
https://hochi.news/articles/20230403-OHT1T51009.html
(I can't stop loving you)
I've made up my mind
To live in memory of the lonesome times
(I can't stop wanting you)
It's useless to say
So I'll just live my life in dreams of yesterday
(Dreams of yesterday)