自己肯定感、自分のイメージをポジティブに捉えたり成功したりする方に注目されがちだけど、本来は「良くてもダメでも別にいいや」ってネガティブ込みの自己イメージを肯定するものであって、良きものしか受け入れられないならぜんぜん自己肯定できてへんよな
たとえば性教育でコンドームに触れるのはアウトとか、保健所とかで若い人たちに行政が無料で配っちゃうと、その行政の関連の人たちから怒られたりするとかね。
あるあるで。
で、海外の保健省的な人たちから「えっまさかこのエピソードはジョークだよね?」って乾いた笑いされたあと同情されるトンチンカンでクズな「日本」の姿がたちあらわれる……みたいな。
若い人たちがいたらコンドームを「支援」することが想定される(実際に配布するかどうかは個別ケース)というの、当たり前に当たり前なんだけど、性的な気配のあるものはモラルで攻撃して非難の対象にする行為は
無思考のくせに批判する側に立ってマウント取りたい人とか、あとは人を尊厳ではなく「論」に当てはめて語りたい類の卑小が際立つ人にとっては、とても便利なやり口なんだよね。
ひろゆき、七生養護学校の件以降あからさまになった故・安倍晋三率いる自民党的宗教右派の性教育潰しスタイルに忠実すぎるコメントじゃん。
特定の活動を潰すために「セックスを助長している」という「レッテル」貼るのは古典的常套手段だけど、一生慣れることはないよ。最悪。
文藝春号の批評特集、よいなぁ。
ここ最近、これまでの「テキストをただコードとして読み解いて提示する」というタイプの批評的な文を読むと、いや、それはわかるけど、わたしはもういいや…と謎にモヤモヤしていた。もっと書き手自身がどんな人で、いま何を考えている人で、その自分を隠さず提示しながら率直に思いを語るということがなされている文が読みたくて、だから、ここ一年ぐらいTwitterで「面白かった」と紹介したり感想を書いたものは、そういうものだった。
この特集に寄稿したり登場している人たちは、みんな「自分」の現在地を素直に見せつつ語って、見つけたことをシェアしてくれていて。マッチョじゃないというか。なんと言ったらいいのかな…。とにかくそういう姿勢の人間の心に触れることで、読んでいる自分は救われると思う。
意見が異なるとか、自分や自分のような存在が批判されるとかは構わなくて、そこに生身の人間がいて実存をかけていることに意味を強く感じる。
批評とは何か、わたしはわかっていないのだろうが、でも2023年の始まりにこういう感想を持ったことを残しておきたいように思ったのでこちらに書いた。
「それってあなたの感想ですよね」という子どもには「あなたの感想も聞かせて」って言うと良いよ。感想には価値があるので。
「感想」にも「気持ち」にも「怒り」にも価値がある。そこからだよ、小学生は。