『ONE PIECE』考察と陰謀論は似ている?フィクションと宣言しない方がバズる時代にこそ、「フィクションと謳った上でそういったものに勝ちたい」。『行方不明展』を手がけるテレビ東京・大森時生氏とホラー作家・梨氏にフェイクドキュメンタリーの現在を聞く
https://news.denfaminicogamer.jp/interview/240808a
#denfaminicogamer #大森時生 #モキュメンタリー #フェイクドキュメンタリー #行方不明展 #インタビュー #梨 #ホラー
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240809/k10014544121000.html
災害時にTwitterで情報発信している自治体ってまだあるのかな。この状態ではもう全く役に立たないので「市役所がXで災害情報を発信することはありません」ってスパム除けのお知らせ出すほうが良いレベルでは…。
買おうか悩んでたフェイクドキュメンタリーの本、せっかくの連休だから読もう!と思い切ってKindleポチッとしてきます
あー…………かえりたーい
おはようございます。サラダチキン食べて金曜日を乗り切ります #fedibird
「戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。再び戦禍に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います」
「裁判が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められました。天皇を守るためだったと語られがちですが、それだけではなかったと思います」
「戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できました。その人たちが戦後日本の権力を担っていったのです。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判でした」
おはようございます。ゴミ出し準備してきます #fedibird
日本にいる被爆者は、被爆者健康手帳を交付されれば、健康管理手当や医療給付などが受けられる。しかし、海外の被爆者たちは違った。1965年の日韓基本条約で国交が回復すると、韓国の被爆者たちが治療を求めて日本にやって来るようになったが、日本政府は「日韓基本条約で解決済み」と手帳の交付を拒んだ。
最初に手帳交付を求めて提訴したのが、2014年に87歳で死去した韓国人被爆者の孫振斗(ソン・ジンドゥ)さんだった。
孫さんは大阪に生まれ、広島で被爆。戦後、外国人登録をしていなかったため韓国へ強制送還された。1970年に原爆症治療のため、佐賀県の漁港に密航し、逮捕される。
「広島で被爆した。治療してほしい」。勾留された警察署で、広島からやってきた記者たちに被爆体験を話した。その時の記者の1人が、元広島市長の平岡敬さん(95)だ。当時、中国新聞編集局次長。平岡さんの裏付け取材で被爆の事実が明らかになり、孫さんは手帳交付を求めて裁判を起こした。78年に最高裁で勝訴、手帳を取得した。
しかし、孫さんの勝訴で在外被爆者への援護問題が解決したわけではなかった。
▽「朝には被爆者、昼には被爆者じゃない」
日本政府は孫さんが一審で勝訴した直後の1974年、「海外に居住した場合には手当の受給権を失う」という旧厚生省局長の「402号通達」を出した。在外被爆者は手帳を取得できるようにはなったが、日本にいる間は手当が支給されるものの、海外に出れば支給がストップしてしまうことになった。
郭貴勲さんも日本で手帳を取得。しかし、取得しては韓国に帰るたびに無効となるのが繰り返された。郭さんは、こう批判していた。「日本にいる間は被爆者。朝、関西空港のゲートを出て出国し、昼に韓国に帰れば被爆者じゃなくなる。こんなおかしいことがありますか」
また、こう指摘していた。「せめて日本にいる被爆者と同じ扱いにしてほしい」。郭さんにとって日本人被爆者と同等の権利を求めた訴えは、最低限のものだった。こうも話している。「韓国人被爆者は強制連行され、被爆し、放置されるという三重の苦しみを受けた。しかし、日本政府は援護法を適用してくれない。根本には韓国人を差別する日本人の偏見がある」
ある韓国人被爆者が切り開いた道が、世界の被爆者の希望になった 「日本人として戦争に駆り出された」郭さん、57年後の完全勝訴
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海外に住む被爆者は長い間、日本に住む被爆者と同じ医療支援などの援護を受けられなかった。「被爆者はどこにいても被爆者」と訴え、外国人や海外在住の日本人、日系人ら在外被爆者が援護を受けられる道を先駆者として切り開いたのが、2022年12月31日に98歳で亡くなった韓国人被爆者の郭貴勲(クァク・クィフン)さんだ。
郭さんは日本の植民地だった朝鮮で生まれ育ち、旧日本軍に徴兵されて広島で被爆した。日本人として日本の戦争に駆り出され、被爆したのに、戦後は韓国人だからと何の補償もない。たたき込まれた流ちょうな日本語で「日本人被爆者と同等の権利を」と求め、裁判を闘った。
大阪市で4月1日、郭さんをしのぶ会が開かれた。全国から被爆者や支援者、弁護士や被爆医療の医師ら約50人が駆けつけ、遺志を継ごうと誓い合った。郭さんが生涯をかけた願いは、世界中の被爆者の救済だった。
▽朝鮮人徴兵1期生
郭さんは1924年7月1日、朝鮮半島南部の全羅北道任実郡で生まれた。太平洋戦争末期、日本は足りない兵力を補うため、44年から植民地でも徴兵を実施。郭さんは全州の師範学校に在学中の44年9月、朝鮮人の徴兵第1期生として旧日本陸軍に召集された。
広島の西部第2部隊に配属され、幹部候補生として訓練する中、翌45年8月6日の朝を迎えた。米軍機が投下した原子爆弾の爆心地から約2キロ、工兵隊の営庭(現中区白島北町)で行進していた時だった。上半身に大やけどを負い、3日間昏睡状態となったが、何とか生き延びた。
間もなく祖国へ帰り、戦後は韓国で教師となった。いつもきっちりとした服装の郭さん。胸や腕のケロイドを隠し、海水浴には行かなかったという。
韓国では「原爆で日本の敗戦が決定的となり、祖国解放となった」という考え方が強く、体調不良を抱える韓国人被爆者の多くは医療支援もなく貧困の極みにあった。その中で郭さんは、1950年代から韓国の新聞に被爆体験を寄稿し、補償を訴えていた。67年には韓国の被爆者団体結成に関わり、支部長に就任する。
おはようございます。ヨーグルトにバナナシリアル🥣もりもり食べる #fedibird
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