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いうて文章を味読するようになったの小説を書き始めたころ(中学生)なので、やっぱりインプットとアウトプットは連動するのかもしれませんね。

仕事でいろいろありすぎてメンタルがふらふらです。

エレクトロミュージックばかり摂取してる私に久々に刺さったバンドサウンドがMyGO!!!!!なんですよ。

「あたらしくうつくしいことば」が入ってるの良すぎですね。

「今期観ているアニメは「いきものさん」です」が「今期観ているアニメは「いきものさん」と「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」です」になったわけですが、後者のほうが断然得体が知れないですね……

扇智史 さんがブースト

障害者雇用の場合、障害者側に仕事を選ぶ自由はないから、その企業がどれだけ社会的に評判が悪く倫理に反した業態であっても辞退することができないという事実がある。代わりの職場が見つかる可能性は極めて小さいので収入を得るためには内定が出たところに取り敢えず入社しなければならない。

そういう意味で、障害者は「地元最高!」の底辺ギャルたちと大して変わらない。

扇智史 さんがブースト

寄ってたかって殴られるというのは、中学生で米国から日本に帰国して最初の1ヶ月はそんな感じだったので、他人事ではないというか、あの私をわっと囲んで誰が誰だかわからんような状態で集団でひとりを殴りつける時の一人一人の表情とか思い出すんだよな。楽しくて仕方がない、かつ何かに憑かれているような顔。一対一ではない、集団に埋没して暴力を振るう楽しさみたいなものを日本の社会はいまだに保持していると思う。

一人ずつ呼び出してやり返したんで半年後には無くなった。しかし今でもその陰惨な、自分も含めてとても嫌な気分になるし、いまだに集団でつるんでその勢いで乱暴になる日本の日本人になんとなく警戒を解くことができない。日本で就職もせずフラフラしているのはその必要をあまり感じないからではあるが、背景に幾許かはその影響がある。

お酒が回って眠たくなっています。

扇智史 さんがブースト

今日の東京新聞の女子大とトランスジェンダーの記事、相変わらず奥野さん(たち)の丁寧かつ熱量ある取材がベースになっていてよかったです。
他方で、これは当該記事に対する意見ではなく、より一般的なこととして、「○○女子大学が女性を自認する学生を受け入れ」というような表現は、もういい加減マスコミで使うべきでないと思います。理由はいくつもあります。例えば…
・理由1)「自認する性別」という概念は、トランスの人たちにしか適用されない謎概念である。
・理由2)「自認する性別」という言葉を使うことで、トランスの人たちの生活実態が適切に伝わることはおそらくなく、むしろ誤った印象を受け手に与えている。
・理由3)女子大サイドの決定は「入学条件から戸籍の表記が「女」でなければならないという条件を外す」という角度から理解されるべきもの。
・理由4)女子大を受験するトランスの学生から見えている風景としては「戸籍の表記を理由とした入学拒否を撤回」の方がはるかに実態に即しており、そうした排除が存在してきた来歴があり、今も社会のいたるところでその種の排除にトランスの人たちが苦しんでいるという事実を覆い隠してしまう。

「オオカミの家」のパンフレットを読んでいたら、「骨」の方もかなり政治的な背景や文脈を持っていることがわかり、やはりアニメーションによってこそ描ける政治性があるものだよな…との思いを深くしています。

併映の「骨」も導入に最適でしたね。みんな大好き旧共産圏東欧アニメーションのいちばんたち悪いやつの風合いで、最新のアニメーションとしてこういうの観られるのは嬉しくなってしまいます。

「オオカミの家」観ました。良質で丹念なストップモーションアニメーションを観ると目の保養になりますね。自由自在でひとときも休まらないイメージの奔流という風情で、現実と悪夢の狭間を揺蕩うような体験でした。音響もあちこちから迫りくるようで良かったです。

これを機にレオン&コシーニャ作品集とか出たら秒で買いますけど何とかなりませんかね。

「オオカミの家」満席、パンフレット売り切れで、いいことなんですけど不安になりますね……これ売れちゃっていい映画ですか??

つまらない失敗をいつまでも引きずって悲鳴を上げています。

クラブミュージック寄りの音楽ばかり馴染んできた反動なのか普通にMyGO!!!!!の音が刺さってしまっています。いまさらこういう系のバンドサウンドを掘りたくなってしまいます。

扇智史 さんがブースト

いくら場が「荒れる」ことだろうと、正しいことを言っているのだから好きなだけ主張するというのは、確かに個人でやるぶんには結構なことだけれど、それが集団のうねりになった結果として「荒らされてしまった」場所で、誰がもっとも傷つくことになるのかとか、そうやって場所が「荒らされた」ことで生まれる傷をケアするためのコストが誰にしわ寄せとして向かうことになるのかとか、まったく想像しもしないのは一体どういうつもりなのか。そんなことは考えるつもりも考える責任もないと言うのなら、もうマイノリティの状況になんて関心がないとはっきり言えばいい。社会運動における「ケア」の問題がこれだけ認識されているのに、どうしてそんな非難の濁流のようなことを続けられるんだ。

「古本屋で買いました」も「イベント行けません」も要は隙自語(隙あらば自分語り)なので止められないと思うんですよね。人間は何故隙自語するのか
という人間科学的命題です。

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