その他の『MY (K)NIGHT』の好きなところとひっかかったところ
イチヤとmiyupoの話:イチヤの同期、教授と全く同じこと言ってたし、あの展覧会は芸術的権威の再構築でしかないと思った。イチヤ、そんな権威とは相容れなかったんだろうね。かれの同期はそれに適応したに過ぎず、比較的それらと距離の近い芸術をやっていたけれどやめたmiyupoにとってもまた相容れなかったものなんじゃないかな。だからmiyupoがそんな権威主義に楯突いた瞬間がすごく好きだった。一方で、「現代アートってつまらない/わからない」という偏見を助長しかねないつくりでもあったようにも思えてそこはひっかかった。
刹那とあかりの話:個人的に物語としての納得感はあった。冒頭から刹那は母親からの留守電を聞き複雑な面持ちでいるし、あかりと佳津子の関係に自分と母親の関係を重ねて、憎しみはありながらそこに愛があってほしかったという願いも感じられたから。ただ、佳津子があかりにしたことがネグレクトなのは間違いないし、だからこそ物語の納得感とは別のところで、「家族」と縁切ったっていいよ、というメッセージがあってもよかったんでは? という気持ちにはなった。血縁はないながら三人を「手のかかる子ども」と言ったムラジュンまわりでその関係を示唆させてもよかっただろうし。
続『MY (K)NIGHT』の好きなところ
ここで真っ先に立ち上がるのは刻でなく茉麻なんですよ。同僚のため、支配と差別に抵抗するために。茉麻はさっちゃんを「(夫を)一発殴れ」と言い、ボクシングフォームまで教えてアジテーションもしていた。このさっちゃんと茉麻の交流はこの後に効いてくる。
抵抗した茉麻は押し返され、さらに同僚を庇おうとした刻は殴られて絶体絶命、というところで、誰かが立ち上がる。さっちゃんだ。しかも正拳突き二発。ここで思わずガッツポーズをしそうになった。
この作品は「男女の物語」を謳っている。でも、さっちゃんと茉麻の交流は、そこに当てはまらないけれど、確実にさっちゃんに影響を与えている。刻だけでは、きっとさっちゃんがあの客に立ち向かうまでにならなかっただろう。刻と茉麻のふたりがいたから、さっちゃんは「自分はなんだってできるのだ」と現実へと力強く足を踏み出していく。
こんな直球フェミニズムのパートがあるとは思わなかったし、わたしはさっちゃんと刻と茉麻がめちゃくちゃ好きでした。
『MY (K)NIGHT』の好きなところ
とくに好きだったところは、さっちゃんが刻と茉麻と子ども(名前を失念してしまった)と暮らす部屋を訪れて以降のシーン。
刻と茉麻は互いに近しい仕事をしているからか、恋人でありながら同僚や友人のような気安さがあり、お互い地に足が着いていて、フラットな関係に見える。血が繋がっていようがいまいが(実際のところそれをわからないように描いている)、刻と茉麻は子どもへ慈しみを持って接している。かれらは共助の関係を築いているように思えた。
一方さっちゃんは「タワマン暮らし」の「主婦」。つまり経済的に夫を頼らざるを得ない状況下にあるひとだ。そして夫は不倫をしている。さっちゃんと夫の関係は、支配と依存のまさしく家父長制。
で、その家父長制が再生産される場面がある。悲鳴のあと怯えた表情で茉麻と刻の元に同僚(またしても名前を失念)が、「金払ってんだよ!」という横暴な態度の客から逃げてくるところだ。さっちゃんと夫の関係の再現でもある。「養ってやってんだ(から不倫くらいいいだろ)」って。さらにこの場面にはセックスワーカーへの職業蔑視も含まれている。→
即時停戦を求めるメールアクション、今日もあります。11:00〜13:00と、21:00〜23:00がコアタイム。
首相官邸🔽
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虐殺をとめろ。民族浄化をとめろ。動物用物資の持ち込み許可を。戦争犯罪に加担するな。
いずれも、個人情報の入力不要で送れます。どこからでもできるプロテスト。一言でも二言でも、ぜひ。
#StopGenocide
#CeasefireNow
#PermanentCeaseFireNow
#FreePalestine
🇵🇸🕊️
しっかし『MY (K)NIGHT』の主題歌である『片隅』のMVが『TiAmo』とのコラボであるならどうして「迷えるお嬢様」の肩をたたいて不倫相手の男を殴りに行く展開にならないのか。解せない
『MY (K)NIGHT』観ました!
観る前は「あなたを満たしたい」というキャッチコピーに対して「我々は満たされなさをデートセラピスト(=疑似恋愛)に求めなければならないのか?」ということを考えてしまい不安だったんだけど、実際のところこの映画に恋愛要素はほぼ存在せず、「満たされなさ」とは「自分とは何者か/自分は何がしたいのか」という等身大の葛藤なのだと思えたところがすごくよかった。かといって(おそらくセックスワーカーとしての側面もあるであろう)かれらの仕事や疑似恋愛をわざわざ否定することもしていないし、そのへんのバランス感覚はあるように感じられたのもよかった。
ただ、外国人表象に気になる部分はあったな。この作品、たぶん意図的に「日本っぽさ」を消してるんですけど、その結果「外国人/外国文化」をカリカチュアしているようにも感じられるシーン(モノレールのカップルとか)があった。
映像にウォン・カーウァイっぽさは確かにあるけど、テーマ的にわたしは『エドワード・ヤンの恋愛時代』思い出した。あの作品も邦題は「恋愛時代」とは言ってますけど原題は『獨立時代』であり、「自分はどう生きたいのか」という問いの答えを求め人と関わり合っていく物語であり、なおかつ恋愛以外の関係性に強いフォーカスが当たっていると思うので。
トランスジェンダーたちの実存を「議論」するな、ということと、ゼノフォビアを内面化した産経新聞記者の黒田勝弘氏の著作など、差別の犬笛となるような図書について、出版業界全体で対処してほしい旨を送りました。
https://wwws.kadokawa.co.jp/support/contact/
ライブはすごい楽しかったがしかし心にあるわだかまりは消えないな。万博もそうだし帰りに親イスラエルのPUMAとのコラボをこのタイミングでやるのかあ……
成人済みおたくでクィアのアナキスト(they/them)/映画と音楽/トランス差別とあらゆる差別に反対