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辻井喬『彷徨の季節の中で』読了。
一言で言えば、青春の蹉跌、家父長制の家に反発し学生運動に打ち込むも挫折する話。幼少期から思い出を綴っていく、著者のデビュー作にして自伝的私小説。

挫折の仕方がバキッと音を立てて折れる感じではなく、カスっと手応えなく折れる感じで、そういう弱い我しか張れない主人公の話です。
主人公は妾の子として生まれ、妾を囲うような父親を憎み、妾に囲われるような母親を疎み、そのような父母の子として生まれた自分を不潔だと厭います。
父親に反抗しようとして仕切れず、その死を願いながらも父親が急な病に陥れば夜中に医者の門を叩きます。
父親は囲った妾の家の女中に手を出し、それに母親は気付いているという、地獄のような有様なのですが、読み心地は意外と爽やかです。それは、主人公が地獄の渦中にありながら、自分の立ち位置を当事者に置かず傍観者に置いているからでしょう。そういう屈折の仕方です。

生母を早くに亡くし、正妻との折り合いが悪く、父親を父と呼ばない異母兄である長兄の、形骸だけ保ってて壊れてる感じが最高です。主人公は屈折するだけで壊れることもできてない。
仲が悪いわけではないのですが、お前はあの妾の子ではないよ、と意味不明な呪いをかけてくるんですよね、お兄ちゃん。
主人公の家は孔雀を飼っていたことがあるのですが、空襲で燃えます。後に、父親に廃嫡されることに成功したお兄ちゃんですが(でも勤め先は父親の会社なんだよ、怖いね)、雨漏りのする家の庭先で孔雀を飼っていて、逃げてと逃げられない父親の色濃い影を感じて、グッときますね、滾りますね!

作中で主人公は幾度となく、自分は父親と母親とは違う人間だ、ぼくはぼくだと主張します。それは反抗であったり精神的な支柱であったり諦観であったりするのですが。
最後、主人公は「ぼくはぼくだ」という自己認識すら手放します。
主人公の母親は、己の境遇を源氏物語と重ね合わせること(それと、士族の出であるという矜持)によって、辛うじて自己を保っています。主人公はそれを、文学への逃避だと見做しています。
しかし革命に挫折した主人公は(父親の扶養の下)、文学を研究する道へ進むもうと、最終章で思うに至るのです。

文庫本の装幀画が、モネの朝靄の風景画なのですが、そんな感じで芒洋としていて光を眺めているような文章です。
これこれこういうことがあった。私はその時これこれこう思った。とセットになってる文章なので、わりあいにするするっと読めます。

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