木下歌舞伎『桜姫東文書』
予習のために原典のあらすじを確認したとき、転生女体化ものの創作BLでめっちゃありそうなストーリー、と思ったのだけど、実際木下さんと岡田さんのトークイベントの中でも21年の歌舞伎座公演でもオタクが萌えたと言われていて笑ってしまったw
古典の翻案において、現代においては保守的差別的とされる設定やプロットをどうアップデートするかは重要な焦点の一つで、当パンでも木下さんがジェンダーや障害に少し言及してたりする。でも、上演としてはそのプロットに批判的な言及がある風でもなくて、私はそれが良かったと思った。つまり、(お二人のインタビューの言葉を借りれば)「アンモラル」な部分を、エンタメ的に消費/消化してしまうところって今の私たちにもあって(BLつながりで言うなら例えば同意のない性行為から関係が始まる創作は結構多い)、そういう不謹慎さを過去のものとして突き放すよりも、その感覚を理解できてしまうとするところに今回の翻案の意義があったように思う。性や障害、家父長制みたいなテーマにおける差別に関するモラル/倫理観が、少なくとも今の日本の社会の感覚では劇的に変わったとも思えないし、その意味で歌舞伎原作を現在と切り離す解釈は逆に無責任かもしれないとさえ思う。
だからこそ、主君への忠義のために家族を殺してしまう「押上植木屋」「郡司兵衛内」で、岡田さんがはっきりと「歌舞伎ってよくわからん」ということを登場人物に言わせているのが、現代に沿わない価値観はここだよなとめちゃくちゃ納得できた。歌舞伎だけではなく古典の現代版上演で理解しがたいのは性差別や人種といった今の社会で話題になる問題よりも、王制とか武士道/騎士道とか儀礼とかじゃない?と個人的によく感じていたので、このメタ的な言及は面白かった。
岡田さんは当パンの中で自分は原典の翻訳をしたのだ、と書かれているのだけど、確かに「翻案」というよりもその言葉が近い印象を受けた。素人ながら、台詞の言葉も歌舞伎の様式の諸要素も、ほぼ一対一対応に愚直に置き換えたのではないかと思う。大向こうまで舞台に取り込んでいたのがすごく面白くて、この慣習も含めて歌舞伎なのだなと思いつつ、歌舞伎の観客と今劇場で観ている観客の連続性をないものとするかのような大胆さにも驚いた。でも、あの大向こうさんを見世物的に眺める感覚は、歌舞伎座に行くのは数年に一度、くらいの人間には結構リアルで、自分の観劇体験を改めて振り返ったりも。