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どうでも良くない話ですがフィクションとは現実の模倣で戯画なので「そこに描かれたもの」で「何を語りうるか」まで言及しなければ表層の字面をなぞってモチーフをなぞって手遊びにいじるだけになってしまうよねと思う

フィガロとブラッドリーの対称性、もちろんフィガロの強権的・支配的なありさまを否定的に描くこともしているけれどそれ以上にフィガロの越えない一線をブラッドリーが(事実上)肩代わりし、担うことによって描かれる悪性は…って見方の方が好き 病の沼が示すように本来フィガロはブラッドリーと「同じ決断」を下せる人物と見做されていればこその話

ブラッドリーに当たりがきついのではなくて「悪人」として描いているという話をしたいだけなのだけど

まほやく、アイザックを排斥して殺めたブラッドリーをちゃんと悪人に勘定して「殺そう」とは言ったものの実行に移すことは叶わず、どうしたら彼の幸福を真に願えたのかと未だ懊悩するフィガロは……という問いを投げかけるところが信用できるしブラッドリーを善人に描いているわけないだろという顔をしてしまう

個人のスケールではそういった突発的な行動は控えて出費も押さえたいから

あまりよろしくないお金の使い方をしている…(ぎりぎりに行動するから特急料金がかかっている図)

作法に則った討論や議論も好きなら無作法な喧嘩も好きだから、北の魔法使いのスケールとは桁違いなのだけれども北の魔法使いの言うことは少しわかる 他者の憐れみをありがたく甘受する必要などないを語る姿勢をどうしてきらいになれようかと思う。まほやくはどの国のいうことも少しずつわかるし少しずつ相容れないのでありがたい

よくあるのは親子仲が深刻なレベルで悪かったけど再度持ち直して再生の道を進むと言った時の場合で、繰り返し酷使されて手垢のついた手法によって「フィクションの中にしかない(特に下手くそな)綺麗事」と見做されがちなことではって本当に難しいよなあと

自分や身の回りの人や視認できる範囲のひとに起こり得なかったことだから「無いもの」として扱うことの恐ろしさと、フィクション上で飼い慣らされて陳腐化した手垢のついた「お約束的展開」に区別がつけられない時、本当に渋い顔をしてしまう 作り手の責任と受け手の責任はそれぞれ個別にあり、その作品の出来によって変わるので総じて言えることはないけど

それはそれとしてまほステで『きみの幸せ』の師弟リプライズ決めたあとに涙のオブリガートで2部リプライズするような返し方をする、相互性を読み取る余地もある原作⇔ステに行き交う文脈のあることも好きですが

まほやく→まほステのメディアミックスで翻訳された言葉が好きだし、翻訳されたからと言って本編で使われなくなるかと言えばそうでもない、場による言葉の移り変わりがわたしはだいぶ好き

まほステがファウスト→ブラッドリーの野蛮を「物騒」に置き換えても「イカれてる」は残ったあたりにさまざまな采配を感じられて、それくらい独特な(作中の文脈の強い)言葉だよなあと思う

「イカれてる」ってまほやくだとムルの代名詞みたいなところあって使いどころかなり考えてしまわないか?ってことを思い出した ブラッドリーとオーエンは悪罵と賞賛に使うけど ネロも使ったことあるかな…?ネロもミスラもない気がするんだよな

その逆(逆)も含めて何なんだろうって目にしたときからずっと思っている 向こうでもふつうに言ってるけれど

もしかして対賢者ってだけで夢、カプ前提って鼻で笑う魔法使いカプ推し()の人の話が出てきた?と思ったけどそんなことなかったみたいでよかった

ブラッドリーって悪人として描かれているから好きだから悪人としての描かれ方が足りない、危うい的感覚持たれている人いるとよかったなと思う 私はいい塩梅だなと思っているけど私と同じでなくてはならないことなんてないから(当たり前)

fedibirdて購読機能があるから適度な緊張感あってよい 本当に見られているかどうかは関係なく、見られてるかもしれないことを考えた言動を取れるから

「魔法使いは本当はいい人なのに」「そういうのではないのに」という時の「そういうの」として存在するブラッドリーが私は好き

ブラッドリーって嫌いよりも受け入れ難いとみる人がいておかしくないふうに書かれているので、それを理由に北から/魔法使いの秩序から引き離したフィガロがミチルに言う「みんなの中にブラッドリーは入ってる?」と繋がっている

まほやくの人間、魔法使いをおしなべて「北の魔法使い」とするド偏見・差別感情あるが、現に賢者の魔法使いには典型的「北の魔法使い」がいる、そういう人しか生き残れないという展開しているんだよな

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