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先日自分のパートナーの胸のことを「俺のおっぱい」と言ってた人の話を聞いたけど気持ち悪すぎたわ。
ひとは他人を所有することはできないんだわ。ひとが他人のからだのことを勝手に決めることもあってはならない。
(他人というのは血縁者も含めた自分以外のすべてのひとのことを指しています)

性暴力について 

この世から性暴力がなくなってほしい。すべてのひとが性暴力に遭わないでほしいし、遭ってしまったひとが最大限ケアされ嫌な思いをすることがないようになってほしい。
なんで被害者がケアされるどころか貶められてるんだよ。
この脈々と続く性暴力への認識の軽さなんなんだ?
こんなにトラウマになることなのに。
ほんとうにいやだ。ほんとうにもういやだ。

性暴力について 

暴力はすべて大嫌いだけどその中でも私は性暴力って本当に許せなくて、でも日本社会は性暴力に異様に甘く、毎日毎日毎日性暴力の加害者があまりに軽い罰で済んでいるのが吐きそうなほど悔しいです。
せめて被害者が加害者の顔を一生見なくて済むようにするのが最低条件ではないのか?

守られるべきは弱者ではなく俺たちなのに! という思想がトランプを支えていることがよくわかるツイートではある。
x.com/hershamboyz/status/18541

どう?
順調に動いてる?

民主党が何をしてこなかったのか、何に失敗したのかを考えるにあたって、「民主党がしてきたこと」の中から「やらない方がよかったこと」を探し出そうというのは、ぎりぎり理解できる。しかし、そこでよりにもよってトランプが攻撃しつづけてきたマイノリティ集団を犠牲に差しだすのか?トランプがなによりもターゲットにしてきた、米国社会のマイノリティ集団に責任を押し付けるのか?どれだけマジョリティリベラルは傲慢なんだ。

奪われてきた権利をマイノリティ集団に回復させ、体制に包摂するというリベラルな政策が、そうした政策の直接的な恩恵を受けない(マジョリティ)集団にとっての、その他の利害の充足という目標と、二者択一のように語られるのはなぜなのか。
なぜ、その二者択一を自明視するのか。その二者択一を枠組みとして設定しているのは誰なのか。そしてそれを排他的な二者択一かのように演出することで、誰が利益を得ているのか。そこまで考えることなく、こんな記事を配信するくらいなら、Twitterのおしゃべりを見ているのと変わらない。

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なんか朝日新聞がひどい記事を出していた。
「ジェンダーや特定の人種などの権利や利益を擁護する「アイデンティティー・ポリティクス」を進めてきた民主党。」とか「米国社会は同性婚を認めるなど多様性を重視してきたが、行き過ぎへの反発も生まれている。」とか書かれていて、大丈夫かという感じ。

ここに言われる「アイデンティティー・ポリティクス」は、日本における「ポリコレ」のように、右派の人たちによって奪い取られ、意味を歪められた概念。それをそのまま分析概念として使うのは不用意にすぎる。

また、せいぜい構造的な排除や差別を経験している集団の剥奪を埋め合わせるためだけのリベラルな政策に敗因を求めるなど、それこそ「マイノリティを重視しすぎ」だろう。

具体例として同性婚を上げているけれど、異性婚しかできない社会を変えて、同性婚を認めることが、どのような意味で「行き過ぎ」ているのか?異性愛者たちこそ、これまで「行き過ぎた」法的保護を受けてきたのではないか?
https://www.asahi.com/articles/ASSC71RS6SC7UHBI018M.html

弱者をそのまま攻撃するのはさすがにマズいと知って“弱さを振りかざす権力”の仮面を勝手に被せた上で始めるの心底卑劣 ( ⚭ᴥ⚭ )

先日の衆院選の結果を受けて、「共産党が議席を伸ばせなかったのはトランスジェンダーの権利を擁護して女性票を失ったからだ」と、的はずれなことを言っている人がTwitterにはいっぱいいた。でも、世界はそんなに単純ではない。少し考えればわかること。トランスジェンダーに対する政治的スタンスひとつで投票行動を変える層が、有権者の大部分を占めるわけない。
でも、その当たり前の事実を分からなくさせる魅力に取りつかれる人たちがいる。それが、この社会に構造的な差別があるということ。
「行き過ぎたリベラル」か、それとも「貧しい労働者階級か」といった二者択一。「トランスジェンダリズム」か、「市井の女性の声」か、といった二者択一。そんなものが存在するかのように見せかけ、あたかも世界のすべての人にとってそれが重大な二者択一であるかのように信じさせること。
それが可能になってしまうのが、マイノリティ集団がマイノリティ集団であるということ。「あいつらの権利を回復したせいで、世界がもっと悪くなってしまった」という、スケープゴートを差し出す物語によって、保守からもリベラルからも排斥される人たちが、真ん中にいるんですよ。

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そら腐れの小籔なんぞが座長になってたぐらいだから推して知るべしだが、新喜劇なんてほんまにもう崩壊しとるぞ。70-80年代を知ってる人間からすると素人のお遊びでしかないぞ。

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(BT)「ジャリん子チエ」や中島らものクールなボケ捨てを愛してきた人間としては調子に乗った吉本関係の「コテコテ」に代表される夜郎自大な自画自賛には反感、憎しみすら感じる。何もかもアイツらがダメにしたと思う。

【速報】枝野氏は憲法改正による緊急事態条項の創設について「独裁条項だ。論外だ」と述べた:時事ドットコム
jiji.com/jc/article?k=20240821

 「みんな違ってみんないい」は「みんな」もいやなんだけど、「いい」の部分が居心地悪い。ちがうのはいいとか悪いとかの問題じゃないし、許すとか受け入れるとか排除するとかそういう問題では絶対にないから。
 そしてまた、詩の一節がこんな風に切り取られてふらふらとしているところを見るのはきつい。

マイノリティのことを、理解できる/理解できない、認める/認めないという軸で話が進みがちだったりしますが、それは軸の設定がズレてしまっています。

例えば、性的マイノリティの例でいうなら、マジョリティであるシスやヘテロの人々は、非シス非ヘテロである人々の理解や認知を前提にして暮らしていません。

目の前にいる人は、理解しようがしまいがそこに生きています。認めようが認められまいが、命を紡いで生活しています。なのに、なぜ軸の設定がずれてしまうのか。そこには無自覚な偏見や無自覚な特権が働いていることが多々あります。

中でも、「認める」というのは無自覚な特権の代表格ともなるものです。なぜ、上から目線で他人のあり方をジャッジする側に立っているのでしょう。
マイノリティは、赤の他人に認めてもらうために生きているわけではありません。ただ、自身のセクシュアリティと共にこの社会を生き、人生を築いているだけです。

よって、言えることは「人のあり方やその人生は自分の想像を超えて多様なんだということを、ただ受け止めるだけ」

認めるかどうかではなく、誰かが排除される社会構造こそを問題にしなければなりません。

昨日はドイツやべえやべえ言ってたら、ドイツ在住の方からスナック社会科にお声がけがあった。どこにも諦めない人(たち)がいる。とても心強い🔥
まずは生存。えいえいおー。

「大石がレイシストだと言うのか!」「あの動画が差別だと言っている。大石が差別主義者とは言ってない。」みたいなやりとりは一時期Twitterで結構流れて来てたけど、ああいうの、結構引っ掛かっている。

世の中見てみろよ。ちょっとした会話で外国人嫌悪の言葉が、嫌韓の言葉が、嫌中の言葉が、侮蔑の言葉が出てくるんだぜ。

言ったヤツ、言ってるヤツ、乗っかってるヤツが差別主義者かどうか?

知らねーよ。勝手にやってろよ。

その言葉を止める事も止めさせる事もせず、忙しそうだなお前ら。

って感じ。

結局止める気も、それが許されるべき事ではないという事も、分かってないし分かろうともしていない。

あほくさい。

そんな感じ。

に思ってる。

冬は化粧したくないし夏も化粧したくない

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