@chaton14
私はオリンピックの試合も開会式も全く見ていないので、しゃとんさんのご説明から推測するだけですが、図書館で題名と作家名が見えるように本が映されたとしても、それはもちろんフランス語ですよね?そしてその書名はたぶん、一瞬映るだけですよね?そのフランス語を一瞬で読めて(その邦題も知っていないといけないでしょう)、さらにフランス文学に造詣が深い人を「オリンピック」の解説者に選ばなければならないわけですよね?
予め、開会式の台本でも渡されていて、どんな内容になるのか知らされていれば、その場面にはそういう人を呼ぼうと考えるかもしれませんが、たぶん内容は事前には知らされないのでは?知らされていたとしても、スポーツではなくて、フランス文化に詳しい人をオリンピックの解説者に選ぼうとするかどうか?
しかし、そもそもスポーツの祭典であるオリンピックの開会式でこんな趣向が必要なのでしょうか?スポーツ大会なのですから、開会式は選手が入場して聖火を聖火台に灯すくらいでいいような。オリンピックが商業主義になった結果なのでしょうか?
@chaton14
お返事ありがとうございます。
なるほど「現在のようなかたちでやる以上」そうなるものなのですね。私が持っているオリンピックのイメージがアップデートできていないみたいです。
今のオリンピックが商業主義の行き着く果てだとしても、それではそうなる前はどうだったかと考えてみると、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』があり、まあ、昔から国威発揚の場だったわけですからね。
@chaton14
もうひとつ、私のオリンピック観でアップデートできていないことで、開会式がリアルな体験ではなくなったことがあります。
私は、開会式とは、会場の観客がリアルに見るもので、会場に行けなかった人がテレビで見るものだと思っていました。もちろん、開会式でなくてもスポーツ観戦は、競技場で見ると臨場感はあるけれど、細かい場面は見えなかったりして、テレビで見た方が、クローズアップで見られるというメリットがあったりします。それでも、競技場に実際に行って、目の前で繰り広げられる競技を見るのが本来の姿だと思っていました。
しかし、パリオリンピックの開会式とは、船で入場したり、その図書館の場面などはその場に居合わせることはできないわけで、開会式会場にいても、スクリーンに映る動画を見るわけですね。これは何だろう?と思いました。観客にとって、開会式の会場にいることにどんな意味があるのだろう?観劇とも違う、映画を見る体験とも違う、ある種のアトラクションのような体験なのだろうか?などと考えました。実際にその映像すら見ていないので、的外れなことを書いているかもしれませんが。
@minzimt
現在のようなかたちでやる以上、開会式は開催国の文化に関わるものになることはほぼ自明のことです。私が見た動画では、3人の解説者がいましたが、そのうち誰一人として、目の前で起きていることについて興味を持ち、具体的に述べ、解説するということをしませんでした。
中継する以上、日本のテレビ局は少なくとも3人のうち1人はフランス文化を一定程度解説できる人を選び、「これはこういうことでしょう」という説明を、(全てではなくとも)できる限りするべきだったのではないかと私は思いました。まだ、それができる人材がいないというところにまでは日本の文化の力は下がってはいないと考えています。
こう考えることは、商業主義的なオリンピックを肯定することとはまた別のことだと思います。
私も現在の大国中心・商業主義のオリンピックには反対の立場です。
「スポーツ大会なのですから、開会式は選手が入場して聖火を聖火台に灯すくらいでいい」というmintさんのご意見に賛同しますし、
そもそも今のオリンピック自体を開催する必要がどれほどあるのかもわからないとも思っています。
(もし、中継のテレビ局が反オリンピックの立場で敢えて無内容な中継をしたのだとしたら、その趣旨に賛同しますが、そういうことはないでしょう)。