文学を話題にしつつ言語技術を扱う、という工夫はよくわかる。ただそれと別に言語技術を使うことで文学を読む/書くことがどう変わるかといった議論をする必要がある気がする。
国語科のPCKは概念そのものではなく言語活動のプロセスのなかにある、というのは確かにそう。ただ国語科の「知識及び技能」は他教科のように概念の獲得がひとまず目指される場合がある(まさに文法とか)。ここと「言語活動のプロセス」をどう位置づけるか。
課題研究発表がはじまりました。 #jtsj
AIが「研究の目的(問い)」という概念を理解できるのかなあ。
音声入力かなにか知らないけど、すべてAIが穏当な漢字仮名交じり文を書いてくれたとき、それはわたしたちの「書く」ということと同じなのか。
「S田先生」だとあいまい文になっていた。笑 なおどちらの質問の回答も聞きたい。
なんか質問を考えてもさっきT田さんがツイートしたことに着地してしまう。「デジタル機器で書くこと」が入る前から毛筆で書く目的は問われていた。いまはAIの出現でそもそも文章を書く意味が問われるようになった。そもそも何のためにわたしたちは「書く」ことを学ぶのか、とか書いてたらちょうどそういう話になった。
国語教育。武蔵野大学准教授。博士(教育学)。文法教育が他領域と関連をもてていない原因を歴史的に研究しています。植民地における言語教育にも興味があります。トムヨークと佐藤天彦がすき。書き込み内容は所属組織と無関係です。