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これと同じようなことはこの前の日本語学会でも話題になっていた。日本語学的な説明的文章をもっと教材に入れたらよいなど。ただ「話題にふれた」ことがほんとうに「学んだ」といえるのか。

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教科ごとに価値観が少しずつちがうことは、自分がやってる教科教育史研究会でも感じる。同じものを見ても視点や語の定義がちがう。ひるがえって自分の前提にして視点や語の定義がわかってくる。

文学を話題にしつつ言語技術を扱う、という工夫はよくわかる。ただそれと別に言語技術を使うことで文学を読む/書くことがどう変わるかといった議論をする必要がある気がする。

教師教育のシンポジウムなのに、「生きて働く知識技能って一体なんやねん」といういつもの文法教育史の問いに帰ってきたぞ? おかしいな?

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国語科のPCKは概念そのものではなく言語活動のプロセスのなかにある、というのは確かにそう。ただ国語科の「知識及び技能」は他教科のように概念の獲得がひとまず目指される場合がある(まさに文法とか)。ここと「言語活動のプロセス」をどう位置づけるか。

香西・中嶋の仕事を自分のなかでもっと位置づけなければなあ。言語形式と書くことの関係。

AIが「研究の目的(問い)」という概念を理解できるのかなあ。

すくなくとも、近年提唱される漢字力のうち、書字的運用力(あえて漢字で書かないことでレトリック的な表現をするといった力)にあたる表現はほとんど無くなるよね。

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音声入力かなにか知らないけど、すべてAIが穏当な漢字仮名交じり文を書いてくれたとき、それはわたしたちの「書く」ということと同じなのか。

@nabetaka 文字にしろ文章にしろ、「書くとはどういうことなのか」ということですよねえ。「考えること」「社会参加すること」いろいろあると思いますが、そこを見据えないでテクノロジーが発達してるから……という話を始めてしまうと、議論がうまく噛み合わない気がします。

「S田先生」だとあいまい文になっていた。笑 なおどちらの質問の回答も聞きたい。

炊飯のテクノロジーと作文のテクノロジーは果たして同じか。自動車があるからマラソンしなくていいよね、というロジックは賛成しづらい。この賛成しやすさ/しづらさを分けるのはなにか。

文章を「書く」(書くこと)と文字を「書く」(書写)がちょっと錯綜している印象。意図的なんだろうけど。

かんめらゆうた さんがブースト

書写は何を目的に学んでいるのか?

なんか質問を考えてもさっきT田さんがツイートしたことに着地してしまう。「デジタル機器で書くこと」が入る前から毛筆で書く目的は問われていた。いまはAIの出現でそもそも文章を書く意味が問われるようになった。そもそも何のためにわたしたちは「書く」ことを学ぶのか、とか書いてたらちょうどそういう話になった。

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