大教室で新年度のガイダンスなんかをしていても、油断すると95%以上の人がなんの筆記用具やキーボードも準備せずただ話を聴いている。メモの大事さは毎回強調することになっている
「「ノートをとる」という習慣はコロナ禍で完全に死滅した感がある。板書をそのまま写すのも難しくなっているし、自分なりに整理してまとめるのなんて夢のまた夢。」
https://x.com/TNK_KNCH/status/1852987480406135250
「人権は白人が作った概念だから、日本人には相容れない」って、この人は不当に拘束されたり、生まれによって職業や結婚が制限されたり、貧乏人は自己責任で生きろっていわれたりしたいのかなあ。したいのかもしれないな。
おなじく分からない。「個性」だけでなく、個人のあいだに共通の枠組みがないといけないという点は同意するけど、その「枠組み」とは「みんなで同じこと」をすることではない。
むしろお互いにちがうことをしていても認め合うところとか、ここから先は認められないとかルールを考えるところに「枠組み」が生まれるんじゃないか。
「みんなで同じこと」を目指すと、むしろそういう個々人の差異がスポイルされて、「滲み出て」こられなくなる「個性」が増えるんじゃないか。
「ごめん、わかんねえ。全然納得いかねえ。おら、大人になったからだか。」
https://x.com/ShinShinohara/status/1852844040120926499
弊学の学生が教員にインタビューしていく「イドバタコウギ」ってコンテンツがあるんだけど、手前味噌ながら(?)かなりおもしろい。今回は看護学の教員へのインタビューなんだけど、保険と福祉がどう衝突するか、といった教員の思いを取り出している。学生も「文学部の研究も、就職してから再度戻ってくれば問いが変わるだろうから、そういう柔軟さがあってもいい」といったような対話がある。おすすめ。
実は誰もがお世話になっている!?知られざる医療職「保健師」の仕事とは【ゲスト:中板育美先生(看護学)】#15
https://www.youtube.com/watch?v=TSa9uF2ei6w
「古典の内容を現代に生かす」「古典でも現代でも変わらない普遍的なものを見抜く」って頭の働かし方はすてきだと思う。ただこれだけだと「現代」が絶対視されて、それを批判的に検討する余地があまり生まれない気がする。せっかく「現代」と異なる行動原理から書かれる「古典」を読むなら、「この古典はどんな常識で読むべきか」「常識はどんなふうに変わるのか、現代の常識の限界はどこか」みたいな観点を入れてもいいのでは
いま先週の学会のシンポジウム資料を読み返してるんだけど、「実際の科学者も、手法まで完全にオープンな探究(研究)をしていることは少ない」という趣旨の指摘はたしかにと思った
だれかが間違ったメーリスにファイル共有したらしく、身に覚えのない連絡が来る
→「私と関係ない連絡ですよ。宛先確認してください。」という身に覚えのない連絡2が来る
→「私と関係ない連絡ですよ。宛先確認してください。」という身に覚えのない連絡3が来る
→「私と関係ない連絡ですよ。宛先確認してください。」という身に覚えのない連絡4が…(いまここ)
きのう1日休んで、やっと授業モードに頭が戻ってきた。学会議論モード←→授業モードの切り替えをもっとうまくやりたい。
国語教育。武蔵野大学准教授。博士(教育学)。文法教育が他領域と関連をもてていない原因を歴史的に研究しています。植民地における言語教育にも興味があります。トムヨークと佐藤天彦がすき。書き込み内容は所属組織と無関係です。