うちのアスランとゼノス
まず私自身とアスランの考え方や価値観は基本的には別であるていでRPGしていることを前提に置きたいんだけど、ラストをやった時期は同時に「果たしてコイツ(アスラン)は戦うことが好きなのか?ゼノスを相手にすることをどう考えてるのか」ということを設定としてどうまとめるか、暁月を通じて考えてた時でもありました。
ただ、これはあくまで私が考えて楽しいってだけのものだし、別にふわふわしてた状態でも何も問題ないものだったんですよね。
そしてそんなふわっとした状態で暁月のシナリオを英雄として進行させていき、最後のあの選択肢は公式の遊び心だと初見の時点で感じて「うわー!やられた!最高じゃん」となった場面なので、今でもよく覚えてます。(当時のふせったーにも「RPGとして進めてたら公式からプレイヤーにメッセきて滾った」みたいに書いたりした)
うちのアスランとゼノス2
あの時は私個人が引きずり出された瞬間でもあるので、私自身は公式への回答として「まったくだ」を選んだのですが、メタ的な遊び心にその回答を引っ張り出れたあの瞬間、同時にハッとしたのを覚えています。
あの瞬間、あくまで「キャラクター」として扱ってたアスランと、プレイヤーである私の選択肢がシンクロした瞬間だったんです。
というか、私がキャラの設定をどう落とし込むか考えてたのがちょうど重なってピーンときて、私の中でキャラの心情とか考えの変遷みたいなものが一本に通った感じがしました。(まぁ要は「これだ!」ってなった)
私は、せっかく公式が遊び心で「RPG中にキャラの中からプレイヤーの解答を引き出させる選択肢を出した」のだから、その構図そのものに乗っかってしまおうと思いました。
その流れを物語として落とし込んだ時、「アスランも冒険者としての暁に見せてないより苛烈な一面が心の内に出来ていて、そんな一面がゼノスに引き摺り出された」として、重ねてしまおうという感じで落ち着いたんですよね。
うちのアスランとゼノス3
前述の通り私はキャラと自分を分断して妄想を膨らませていましたが、妄想が追いつかない部分はあえて自分の実体験を作品に変換して落とし込んでも別にいいかもなと、都合よく自分の感覚を利用することにしました。
私は漆黒5.2頃にメインに追いつき、共鳴でゴリゴリに緩和された零式を経験し、それでも難しいと感じました。けどその反省を活かし猛特訓して再生編で零式をパッチ内クリアしました。その体験で自信ついて、初絶で絶アレキに飛び込んでクリアするって流れで高難易度にのめり込んでいった経緯があるんですが、そのへんの「皆で戦うことの楽しさ、高難易度を緩和なしの自分の最高パフォーマンスでクリアする達成感」に魅せられているという一面を部分的にアスランにも投影してしまおうと思いました。
そんな考えが、「漆黒が終わった頃から・・・戦って汗を流し、その瞬間で人生を燃やすんじゃないかってくらいの戦いに焦がれている「冒険(アドベンチャー)を求める自分」が心の片隅にいることに気づき始めた」って感じの設定に落ち着いています。このへんは自機Wikiにもメモってあるので興味あれば見てください。
そうなると一気にいろんな設定が固まって、どんどんキャラに深みが出てきた気がして楽しくなりました。
うちのアスランとゼノス5
だけどゼノスはそれを見破った。
そんな感じで、長々と語りましたがゼノスは紅蓮で初めてボロクソに負かされて挫折を味わされた相手であり、けどそれを克服して倒した。更にそんな彼からの再戦の申し込みがあり、その際に凄い煽りを持って来られたわけで・・・アスランにとって「そんな話一度も他人にしたことないのになんで俺の考えを読んだ?」って感じだったと思うのです。
同時に思ったと思うんです。今までは暁があまり触れる機会がない戦闘を楽しむ冒険者としての苛烈な一面を隠すべきものと漠然と感じていましたが、程度はあれ冒険者なら「戦いを楽しむこと」自体は決しておかしくはない感情だと、ある意味開き直った瞬間です。
だからこそ、「ふーん、やるじゃん・・・そうか、それほどまでに俺と戦いたいなら、こっちもお望み通りちゃんと向き合ってやるよ」みたいな感じで思って、それ故にあの時の不敵な笑みを浮かべ、世界とか仲間とか未来とか関係なくただその場の瞬間だけの、自分の力を試す純粋な「戦い」に興じていたらいいなと、暁・冒険・戦うこと、という3つの存在に対するキャラ心理が纏まった今だとそう思います。