進化生物学の知見、すべてが眉唾ではないが、根本の前提が「科学もどきのナラティヴ」であるために、各処に混乱を引き起こしている。
例えば、高学歴理系、特に医学部の学生(大学は問わない)などは「進化生物学」の内容をよく知らない内から「生物の目的は自己の遺伝子のコピー」と「自然淘汰説」を結び付け、自らを「進化の過程の勝者」と思い込む傾向あり。ここから「俺はDNAが優れているから医学部に入り、DNAを複製する価値のある男」と横滑りしていくから手に負えない。
こうした連中はダーウィンの理論には「強者生存」の含意はゼロであることも知らないし、DNAと思考能力の間には何の関係もないことも「知らない」。
いわんや受験などは基本、親の経済力、幼年期の「勉強」への動機付けでほぼ決まる、ということも知らないし、まず「知りたくない」。
こうした偏見を是正するために本来「リベラルアーツ」があるのだが、ここ数十年の教養教育はと言えば荒廃の一途を辿る。第二外国語を削って、代わりに「ポートフォリオ」などを科目にしているだから、それも当然だが。
しかし、医学部の学生、要領だけはよく、「カンニング」率も断トツの所も多い、というから困ったものだ。
そういう話を聞くと、若い「医者」に世話になるのはどうも不安になる。
哲学と科学
先日、哲学と科学(数学・物理学)の関係について投稿しました。
最も簡明な比喩を使うと、或る目的地Aがあるとして、Aへの「行き方」を科学は詳細に教えてくれますが、「何故」Aを「目的」とすべきかという問には、「科学」は応えてくれません。
現在米国で隆盛を極めている進化生物学は「生物」の目的を「自らの遺伝子のコピーを残すこと」としていますが、これは典型的な結果と原因の「取り違え」。
例えば「ヒト」を例にとりましょう。「ヒト」は自分の「遺伝子のコピー」を残すために生きているのでしょうか?これはわれわれの日々の「生」を振り返るだけで「科学もどき」の怪しいナラティヴでしかないことは明らかです。
ま、この「遺伝子のコピー」という概念自体が眉唾であって、生殖の結果の次の世代は他人の遺伝子情報との混成であるから、コピーではない。
このDNAナラティヴ、現在一般にはほとんど新自由主義的「優生学」となって猛威を振るっています。DNAナラティヴの「非科学性」と優生学的新自由主義(勝者のDNAは優れている)の双方を批判することも哲学の仕事、と言えるでしょう。
また、原子物理学は核兵器と原発を可能にしました。しかし、この技術を使い続けるかどうかは「社会」=一般市民の決定に委ねられているのです。
子どもは軽症が多いと言ったって、苦しかったり後遺症大変だったり、肺炎なりかけた親御さんの姿を死んでしまったらどうしようって見つめていた子がいたり、親御さんやお祖父さんお祖母さんが死んでしまった子達だって、もうたくさんいるわけじゃないですか。
そんな子らに対し、学校の先生が「マスクばっかしてるのおかしいよー?」「大丈夫、マスク外す勇気大事!」「マスクとってみんなの元気な笑顔が見たいです」とか指導するということの残酷さが、なぜ伝わらないのか。
どれほど「大人」「社会」への基本的信頼を損ねるものであるか、なんでわからないんだろうね。
教育委員会に言われたので〜って素直に従ってしまうのは、無責任の怠慢でしかないでしょ。
私は日本人の勤勉さと言われている、そういう怠慢が大嫌いです。