哲学と科学

先日、哲学と科学(数学・物理学)の関係について投稿しました。

最も簡明な比喩を使うと、或る目的地Aがあるとして、Aへの「行き方」を科学は詳細に教えてくれますが、「何故」Aを「目的」とすべきかという問には、「科学」は応えてくれません。

現在米国で隆盛を極めている進化生物学は「生物」の目的を「自らの遺伝子のコピーを残すこと」としていますが、これは典型的な結果と原因の「取り違え」。

例えば「ヒト」を例にとりましょう。「ヒト」は自分の「遺伝子のコピー」を残すために生きているのでしょうか?これはわれわれの日々の「生」を振り返るだけで「科学もどき」の怪しいナラティヴでしかないことは明らかです。

ま、この「遺伝子のコピー」という概念自体が眉唾であって、生殖の結果の次の世代は他人の遺伝子情報との混成であるから、コピーではない。

このDNAナラティヴ、現在一般にはほとんど新自由主義的「優生学」となって猛威を振るっています。DNAナラティヴの「非科学性」と優生学的新自由主義(勝者のDNAは優れている)の双方を批判することも哲学の仕事、と言えるでしょう。

また、原子物理学は核兵器と原発を可能にしました。しかし、この技術を使い続けるかどうかは「社会」=一般市民の決定に委ねられているのです。

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 進化生物学の知見、すべてが眉唾ではないが、根本の前提が「科学もどきのナラティヴ」であるために、各処に混乱を引き起こしている。

 例えば、高学歴理系、特に医学部の学生(大学は問わない)などは「進化生物学」の内容をよく知らない内から「生物の目的は自己の遺伝子のコピー」と「自然淘汰説」を結び付け、自らを「進化の過程の勝者」と思い込む傾向あり。ここから「俺はDNAが優れているから医学部に入り、DNAを複製する価値のある男」と横滑りしていくから手に負えない。

 こうした連中はダーウィンの理論には「強者生存」の含意はゼロであることも知らないし、DNAと思考能力の間には何の関係もないことも「知らない」。

 いわんや受験などは基本、親の経済力、幼年期の「勉強」への動機付けでほぼ決まる、ということも知らないし、まず「知りたくない」。

 こうした偏見を是正するために本来「リベラルアーツ」があるのだが、ここ数十年の教養教育はと言えば荒廃の一途を辿る。第二外国語を削って、代わりに「ポートフォリオ」などを科目にしているだから、それも当然だが。

 しかし、医学部の学生、要領だけはよく、「カンニング」率も断トツの所も多い、というから困ったものだ。

 そういう話を聞くと、若い「医者」に世話になるのはどうも不安になる。
 

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